、ことごとしく取扱っているだけであった。この程度の「キリスト伝」が、外国の知識人たちに尊敬を以て読まれているんなら、一般の聖書知識の水準も、たかが知れていると思った。たいした事はないんだ。むかし日本の人に、キリストの精神を教えてくれたのは、欧米の人たちであるが、今では、別段彼等から教えてもらう必要も無い。「神学」としての歴史的地理的な研究は、まだまだ日本は、外国に及ばないようであるが、キリスト精神への理解は、素早いのである。
 キリスト教の問題に限らず、このごろの日本人は、だんだん意気込んで来て、外国人の思想を、たいした事はないようだと、ひそひそ囁《ささや》き交《かわ》すようになったのは、たいへん進歩である。日本は、いまに世界文化の中心になるかも知れぬ。冗談を言っているのではない。
 先日、或る外国の新刊本をひらいてみたら、僕の友人の写真が出ているのを見て、おどろいた。日本の代表的な思想家という説明文が附いていて、その友人は、八つ手の傍で胸を張って堂々と構えていた。僕は、この友人と酒を飲んで「おまえは馬鹿だよ」と言った事があるのを思い出して、恐縮した。馬鹿どころではない。既に、世界的な
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