たない負け惜しみに過ぎなかったのではあるまいか。とすると、慄然《りつぜん》とするのだ。殿様は、真実を掴みながら、真実を追い求めて狂ったのだ。殿様は、事実、剣術の名人だったのだ。家来たちは、決してわざと負けていたのではなかった。事実、かなわなかったのだ。それならば、殿様が勝ち、家来が負けるというのは当然の事で、後でごたごたの起るべき筈《はず》は無いのであるが、やっぱり、大きい惨事が起ってしまった。殿様が、御自分の腕前に確乎不動の自信を持っていたならば、なんの異変も起らず、すべてが平和であったのかも知れぬが、古来、天才は自分の真価を知ること甚《はなは》だうといものだそうである。自分の力が信じられぬ。そこに天才の煩悶《はんもん》と、深い祈りがあるのであろうが、僕は俗人の凡才だから、その辺のことは正確に説明できない。とにかく、殿様は、自分の腕前に絶対の信頼を置く事は出来なかった。事実、名人の卓抜《たくばつ》の腕前を持っていたのだが、信じる事が出来ずに狂った。そこには、殿様という隔絶された御身分に依る不幸もあったに違いない。僕たち長屋住居の者であったら、
「お前は、おれを偉いと思うか。」
「思い
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