どけたってむだでしょう。僕は、とどけないつもりですから、あなたも、そのつもりで充分、安心して下さいね。」けれども、この表面は蜜《みつ》のように甘い私の言葉の裏には、悪辣老獪《あくらつろうかい》の下心が秘められていたのである。私は、そう言ってどろぼうを安心させることに依《よ》って受ける私のいろいろの利益を計算していたのである。だいいちには、どろぼうをそんなに安心させて置けば、どろぼうの猛《たけ》り猛った気もゆるみ、かれは私に危害を加えるということが、万々ないであろう。それから、後日、このどろぼうが再び悪事を試み、そのとき捕えられて、牢《ろう》へいれられても、私をうらむことはないであろう。私は、このどろぼうの風采に就《つ》いては、なんにも知らないということになっているのであるから、まさか、私がかれの訴人《そにん》の一人である、などということは、絶対に有り得ないのである。それに私は、警察にはとどけないつもりであります、とはっきり、かれに明言している。かれは、私を、うらみに思うわけは無い。実は、私、このどろぼうが他日、捕えられ、牢へいれられ、二、三年のちに牢から出たとき、そのときのことを心配していたのである。あいつのために、おれは牢へいれられたと、うらみ骨髄に徹して、牢から出たとき、草の根をわけても、と私を捜しまわり、そうして私の陋屋《ろうおく》を、焼き払い、私たち一家のみなごろしを企てるかもわからない。よくあることだ。私は、そのときのことを懸念し、僕は、なんにも知らないよ、と素知らぬふりで一本、釘を打って置いたのである。また、私は、あとあと警察のひとが、私を取調べるときのことをも考慮にいれて置いたのである。私は、もちろん、今夜のこのできごとを、警察に訴え出るつもりは無い。新聞に出たりなどして、親戚友人などに、心配、軽蔑されるのは、私の好むところでは無いのである。訴え出ないで、だまっていることは、これは、法律に依って罰せられる罪悪かも知れない。けれども、どうにも、気が重い。私は口が下手《へた》だから、そんないかめしい役所へ出て、きっと、へどもどまごついて、とんちんかんのことばかり口走り、意味なく叱責《しっせき》されるであろう。そうして、私には何となく、挙動不審の影があらわれて、あらぬ疑いさえ被り、とんでもない大難が、この身にふりかかるかもわからない。きっと、そうだ。私は、何かにつけて、めぐり合せの悪い子なのだ。運のわるい男なのだ。私には、とても、警察にとどける勇気が無い。私は、このどろぼうの襲撃を、あくまで、深夜の客人が、つまらぬところから不意に入来した、という形にして置きたかった。そうして置けば、私は、それを警察にとどけなくても、すむのである。私は、あくまで、かれを客人のあつかいにしてやろうと思った。そんな深慮遠謀もあり、私は、ことさらに猫なで声でどろぼうを招じ入れ、そうして、かれがはいるなり、電燈をぱちんと消してしまった。他日、このどろぼうが、何か罪悪を重ねて、そのとき捕えられ、私の家を襲撃したことをも白状して、警察は、その白状にもとづいて、はじめて私に問い合せに来ても、そのときは、私は頭を掻《か》き掻き、さあ、何せまっくらで、それに夢見ごこちで、記憶が全く朦朧《もうろう》としている始末で、どうもお役に立たず、残念に思います、といって、大いに笑えば、警察のひとも、私の耄碌《もうろく》をあわれみ、ゆるしてくれるのではないか、と思う。重ね重ね、私がぱちんと電燈を消したということは、全く私の卑劣きわまる狡智《こうち》から出発した仕草であって、寸毫《すんごう》も、どろぼうに対する思いやりからでは無かったのである。私は、どろぼうの他日の復讐をおそれ、私の顔を見覚えられることを警戒し、どろぼうのためで無く、私の顔をかくすために、電燈を消したといわれても、致しかた無いのである。まさに、それにちがいなかった。
「すみません。」どろぼうは、ばかなやつ、私のそれほどこまかい老獪の下心にも気づかず、私が電燈消したことに対して、しんからのお礼を言いやがった。
「雨が、まだ降っているかね?」
「いいえ、もう、やんだようです。」まるで、おとなしくなっている。
「こっちへ来たまえ。」私は、火鉢をまえにして坐って、火箸《ひばし》で火をかきまわし、「ここへ坐りたまえ。まだ、火がある。」
「え。」どろぼうは、きちんと膝をそろえてかしこまって坐った様子である。
「少し、火鉢から、はなれて坐っていたほうがいいかも知れないな。」私は、いい気持である。「あまり、火の傍に寄ると、火のあかりで、君の顔が見える。僕は、まだ、君の顔を、なんにも見ていないのだからね。煙草《たばこ》も吸わないようにしましょうね。暗闇の中だと、煙草の火でも、ずいぶん明るいものだからね。」
「は。」どろぼ
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