、全く、ほとほと、できた牧師である。私も、ひそかに敬慕している。その立派な、できた牧師でさえ、一日、馬市に自分の老いた愛馬を売りに行って、馬をいろいろな歩調で歩かせて商人たちに見せているうちに、商人たちから、くそみそに愛馬をけなされ、その数々の酷評に接しては、「私自身も、ついには、このあわれな動物に対して心から軽蔑を感ずるようになり、買い手がそばに寄って来ると恥かしいような気がした。」と告白し、「私はみんなの言うことをそっくりそのまま信じたのではないが、証人の数の多いことは、その言うところが正しいと推定せしむるに有力であることを思わざるを得なかった。聖《セント》グレゴリーも、善行について同様な意見であることを述べているようじゃ。」と、しみじみ気を腐らし、歎息をもらしている。ウエークフィルドの牧師ほどの高徳の人物でさえ、そうである。いわんや私のごとき、無徳無才の貧書生は、世評を決して無視できない筈《はず》である。無視どころか、世評のために生きていた。あわれ、わが歌、虚栄にはじまり喝采《かっさい》に終る。年少、功をあせった形である。どうも、自分の過去の失態を調子づいて罵《ののし》るのは、いい図ではない。いやらしくないか。悔いあらための、いまは行いすました悟り顔、救世軍か何か。似ているぞ。また、叱られた供奴《ともやっこ》の、頭かきかき、なるほどねえ、考えれば考えるほど、こちとらの考え浅うござんした、えへっへっへ、と、なにちっとも考えてやしない、ただ主人《あるじ》への御機嫌買い。似ていないか、似ていないか、気にかかる。
 似ていない。ちっとも、似ていない。全然、別種のものである。私は自身で行きづまるところまで実際に行ってみて、さんざ迷って、うんうん唸《うな》って、そうしてとぼとぼ引き返した。そうして、さらに重大のことは、私の謂《い》わば行きづまりは、生活の上の行きづまりに過ぎなかったという一事である。断じて、作品の上の行きづまりではなかった。この五、六年間に発表し続けて来た数十篇の小説については、私はいまでも恥じていない。時折、自身のそれらの小説を、読みかえしてみることもある。自分ながら、よく書けて在る、と思うことだってあります。けれども、私は過去のその数十篇の小説のなかから、二、三、病中の手記を除かなければいけない。これは断じて、断じてという言葉を二度使ったわけであるが、断じて除外しよう。いま読みかえし、私自身にさえ、意味不明の箇所が、それらの作品には散見されるのである。意味不明の文章が散見されるということだけでも、私は大いに恥じなければいけない。これはたしかに、私にとって不名誉の作品である。
 けれども、私が以前の数十篇の小説を相変らず支持しているからといって、私を甘いと思い込むのは、誤りである。私がこのごろ再び深く思案してみたところに依《よ》っても、私の作品鑑定眼とでもいうべきものは断じて、断じてという言葉を三度使ったわけであるが、断じていんちきではない。私は、何一つ取柄のない男であるが、文学だけは、好きである。三度の飯よりも、というのは、私にとって、あながち比喩《ひゆ》ではない。事実、私は、いい作品ならば三度の飯を一度にしても、それに読みふけり、敢《あえ》て苦痛を感じない。私は、そんな馬鹿である。そう自分に見極めがついたときに、私は世評というものを再び大事にしようという気が起った。以前は、私にとって、世評は生活の全部であり、それゆえに、おっかなくて、ことさらにそれに無関心を装い、それへの反撥で、かえって私は猛《たけ》りたち、人が右と言えば、意味なく左に踏み迷い、そこにおのれの高さを誇示しようと努めたものだ。けれども今は、どんな人にでも、一対一だ。これは私の自信でもあり、謙遜でもある。どんな人にでも、負けてはならぬ。勝をゆずる、など、なんという思いあがった、そうして卑劣な精神であろう。ゆずるも、ゆずらぬもない。勝利などというものは、これはよほどの努力である。人は、もし、ほんとうに自身を虚しくして、近親の誰かつまらぬひとりでもよい、そこに暮しの上での責任を負わされ生きなければならぬ宿業に置かれて在るとしたならば、ひとは、みじんも余裕など持てる筈がないではないか。世評に対しては、ゲエテは、やはり善いことを教えている。私は、このごろ、ゲエテをこそ、わが師なりとして、もっぱら仰ぎ、学んでいる。ゲエテは、ずいぶん永生きをした。その点だけでも、クライスト、透谷《とうこく》よりは、たのもしく、学ぶところも多いような気がする。おのれの才能にも、学殖にも絶望した一人の貧しい作家は、いまは、すべてをあきらめて、せめて長寿に依って、なんとか補いをつけようと心ひそかに健康法を案じている様子である。「しかしなんといっても、」とゲエテは、エッケルマン氏に溜
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