知れない。おうい、と呼ぶ。おうい、と答える。白いパラソル。桜の一枝。さらば、ふるさと。ざぶりと波の音。釣竿を折る。鴎《かもめ》が魚を盗みおった。メルシイ、マダム。おや、口笛が。――なんのことだか、わからない。まるで、出鱈目《でたらめ》である。これが、小説の筋書である。朝になると、けろりと忘れている百千の筋書のうちの一つである。それからそれと私は、筋書を、いや、模様を、考える。あらわれては消え、あらわれては消え、ああ早く、眠くなればいいな。眼をつぶるとさまざまの花が、プランクトンが、バクテリヤが、稲妻が、くるくる眼蓋《まぶた》の裏で燃えている。トラホオムかも知れない。髪に用捨もなき事やといえば、吉三郎せつなく、わたくしは十六になりますといえば、お七わたくしも十六になりますといえば、吉三郎かさねて長老様がこわやという、おれも長老様はこわしという、西鶴《さいかく》あのころは、四十五歳か。一ばん、いいとしらしいな。「女形、四十にして娘を知る。」けさの新聞に、新派の女形のそんな述懐が出ていたっけ、四十、か。もすこしのがまんだ。――などと、だんだん小説の筋書から、離れていって、おしまいには、自身の借金の勘定なんか、はじまって、とても俗になった。眠るどころでは、無い。目が、冴えてしまった。二時間くらい、そうしていたろうか。蒲団の裾《すそ》で、ガリガリ鼠の材木を噛《かじ》る音が、やかましい。もう、いまは眠るのを断念して、無理にそれまで固くつぶっていた眼を、ぱちとあけた。いまいましいから、ことさらに、ぱちと音のするほど強くあけてやったのである。部屋は、ぼんやり緑いろである。まっくらでも眠れず、明るければ、もちろん眠れず、私は緑いろの風呂敷でもって、電燈を覆っているのである。緑いろは、睡眠のために、いいようである。この風呂敷は、路で拾ったものである。私は、八端《はったん》の黒い風呂敷を持って、まちへ牛肉を買いに行き、歩きながら、いろいろ考えごとをしていて、ふと気がつくと、風呂敷が無い。落したのだ、と思ってしまって、すぐ引きかえし、あちこち見廻しながら歩いていると、よその小さい若いおかみさんが、風呂敷ですか、そこにありますよ、と笑いながら教えてくれた。見ると八百屋のまえに、緑いろのメリンスの風呂敷が落ちている。私のと、ちがうようにも思ったが、あるいは、これだったかも知れぬ、いや、これだろう、と思い、そのおかみさんの親切を無にするのも苦しく、お礼を言ってその風呂敷を拾い、それから牛肉屋へ行って買い物をすまし、家へかえってからも、なんだか不思議で、帯をほどいてみると、黒い風呂敷が、ばさりと落ちた。私は、一時、途方《とほう》にくれた。拾って来た緑の風呂敷は、メリンスで、こまかい穴が二十も三十もあいている。謂わば、薄汚いものである。これをまた、八百屋のまえに捨てに行ってもいいが、再び、よそのおばさんに、あれ風呂敷おとしましたよ、と注意を受けたならば、私は、たちまちその親切を謝し、この穴だらけの風呂敷を拾って家へ帰らなければならぬ。むだなことである。私は、一時、この風呂敷を私の家にあずかって置くことにした。普通一般の、健康な市民でも、やはりこんな立場に在ったときには、私と同じ処置をとるにちがいない。私は、決して盗んだのではない。自分の風呂敷を、ふところ深く押し込みすぎて、それを忘れてしまって、落したものとばかり思い、きょろきょろ捜していたら、よそのおばさんが親切に、教えてくれて、私は、感謝してその風呂敷を拾い、家へ帰って調べてみたら、ちがっていた。それだけの話なのである。罪になるかしら。いいえ、私は決して、この緑の風呂敷を、自分のものだとは思っていない。返却したくても由なく、こうして一時、あずかって在るのである。どんな人の使用していたものか、わからない。思えば、きたないものである。私は、この緑の風呂敷を、電燈を覆うのに使用したわけは、けれども、その不潔の風呂敷の黴菌《ばいきん》を、電球の熱でもって消毒しよう、そうして消毒してから、ながくわが家のものとして使用しようなどの下心からではない。そんなことは無い。私には全くそんな悪心がないのだから、いつでもお返ししたいと思っているのだから、正々堂々、誰の眼にでも、とまるように、あかるみに出して置きたく、そんな気持もあって、電燈の覆いに使用したのである。それに、ちがいない。その上、緑色は睡眠のためにも、たいへんよろしいのであるから、願ったり、叶《かな》ったりというものである。その緑色の風呂敷で、覆われて在る電燈の光が、部屋をやわらかく湿《しめ》して、私の机も、火鉢も、インク瓶も、灰皿も、ひっそり休んでいて、私はそれらを、意地わるく冷淡に眺め渡して、へんに味気なく、煙草でも吸おうか、と蒲団に腹這いになりかけたら、また足も
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