って厳守し、そうして、そのときこそは、見ていろ、殺人小説でも、それから、もっと恐ろしい小説を、論文を、思うがままに書きまくる。痛快だ。鴎外《おうがい》は、かしこいな。ちゃんとそいつを、知らぬふりして実行していた。私は、あの半分でもよい、やってみたい。凡俗への復帰ではない。凡俗へのしんからの、圧倒的の復讐《ふくしゅう》だ。ミイラ取りが、ミイラに成るのではないか? よくあることだ。よせ、よせ。そんな声も聞えるが、けれども、何も私は冒険をするわけではないのである。鴎外なぞを持ち出したので、少し事が大袈裟に響くだけのことであって、これを具体的に言うならば、あまり世間の人に甘えるな、というだけのことなのである。「しかしなんといっても、」ゲエテが、しんみりそう教えたではないか。「自己を制限し、孤立させることが、最大の術である。」ミイラになる心配は、ないようだ。
すべては、自身の弱さから、――私は、そう重く、鈍く、自己肯定を与えているのであるが、――すべては弱さと、我執《がしゅう》から、私は自身の家をみずから破った。ばらばらにしちゃった。外へ着て出る着物さえ無い始末である。これでは、いけない。ふんどし一つで、金言を吐いていたんじゃ、まるで何かみたいだ。しかも私には、その金言さえ、おぼつかない。あたりまえの発見を、人よりおそく、一つ一つ、たんねんに珍重し、かなしみ、喜び、歎息している有様である。のろいのである。近ごろ、また、めっきり、のろくなった。いまは、まず少しずつ生活を建て直し、つつましい市井人の家をつくる。それが第一だ。太宰も、かしこいな。何を言ったって、人から相手にされないのでは、仕様がないからね。私は、もともと、そんなに嘘つきじゃないんだ。権威を持ちたい。自身が、死んでから五年、十年あとあとの責任まで持って、懸命に考え考えしながら書き綴る文章の、ことごとく、あれは贋物、なるほど天才じゃなど、いい笑いものにされていて、それで、くやしくないのか。堂々、太刀打《たちう》ちするには、言葉だけでは、だめなんだ。手紙だけでは、だめなんだ。私は、いまは、その興覚めの世のからくりを知った。芸術界も、やっぱり同じ生活競争であった。思考をやめよ! 負けては、ならぬ。どんぐりの背並べ。
一路、生活の、謂《い》わば改善に努力して、昨今の私は、少し愚かしくさえなっている。行動は、つねに破綻《はたん》の形式を執《と》る。かならず一方に於いて、間抜けている。完璧《かんぺき》は、静止の形として、発見されることが多い。それとも、目にとまらぬ早さで走るか、そのいずれかである。沈黙している作家の美しさ、おそろしさも、また、そこに在るのであるが、私は、いまは、そんなに色気を多くして居られない。まごまごしていると、あのむざんな焼印が、ぴったり額に押されてしまう。押されてしまったら、それなりけり。義務の在る数人を世話するどころか、私自身さえ行路病者だ。事態は、緊迫しています。もはや、かの肥満、醜貌《しゅうぼう》の大バルザックになるより他は無い。ほんとうは、若いままで死にたいのだが、ああ、死にたいのだが、ままにならない。よろめき、つまずき、立ち上り、昨今、私はたいへんな姿である。そのような愚直の、謂わば盲進の状態に在るとき、私は、神の特別のみこころに依り、数々の予告を賜って、けれども、かなしいかな、その予告の真意を解くことができず、どろぼう襲来の直前まで、つい、うっかり、警戒を怠っていたということに就いては、寛大の読者は、これを哀れとこそ思え、決してとがめだてをせぬだろうと信じる。繰りかえして言うが、私は、決して家を粗末《そまつ》にしていたわけではないのである。家を愛している。文学のつぎに、愛している。けれども、何せれいの家の建て直しに、着て出る着物の調整に、やっさもっさ、心をくだき、あまりの向上心に、いきおい守るほうを失念してしまっていた。人間のアビリティの限度、いたしかたの無いものである。たしかに一方、抜けていた。まさしく破綻の形である。私は、そのような奇怪の、ほの白い人の顔の出没に接しても、ただ単に、屈辱を感じただけで、それ以上の深い詮索《せんさく》をしなかった。ほかに、あれこれ考えなければならぬ事が多く、そんな、黄昏《たそがれ》の人の顔など、ものの数で無かった。ばかにしてやがる。そう呟《つぶや》いて、窓をぴたと閉め、それから難渋しながら、たわいない甘い物語を書き綴る。これが、私の天職である。物語を書き綴る以外には、能は無い。まるっきり、きれいさっぱり能がない。自分ながら感心している。ある時は仕官懸命の地をうらやみ、まさか仏籬《ぶつり》祖室の扉の奥にはいろうとは、思わなかったけれど、教壇に立って生徒を叱る身振りにあこがれ、機関車あやつる火夫の姿に恍惚《こうこつ》として
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