のである。フィクションを、フィクションとして愛し得る人は、幸いである。けれども、世の中には、そんな気のきいた人ばかりも、いないのである。
私は、実はこの物語、自身お金に困って、どろぼうを致したときの体験談を、まことしやかに告白しようつもりでいた。それは、たしかに写実的にて、興深い一篇の物語になったであろう。私のフィクションには念がいりすぎて、いつでも人は、それは余程の人でも、あるいは? などと疑い、私自身でさえ、あるいは? などと不安になって来るくらいであって、そんなことから、私は今までにも、近親の信用をめちゃめちゃにして来ている。私などは、無実の罪で法廷に立たせられても、その罪に数十倍するくらいの、極刑に価いするくらいの罪状を、検事にせつかれて、止《や》むなく告白するかも知れない。もとより無形の犯罪であるが、そのときの私の陳述が、あまりにも微《び》に入り細《さい》をうがって、いかにも真に迫っているものだから、検事はそれにて罪状明白、証拠充分ということになって、私は、ばかを見るかも知れない。いままで、二十数年間、何もせずに無用の物語本ばかり耽読《たんどく》していた結果であろう。私は自身の、謂わば骨の髄にまで滲み込んでいるロマンチシズムを、ある程度まで、save しなければならぬ。すべて、ものの限度を、知らなければいけない。多少、凡骨に化する必要が在る。何故ならば、くるしいことには、私は六十、七十まで生きのびて、老大家と言われるほどの男にならなければ、いけない状勢に立ちいたってしまっているのである。私はそれを、多くの人に約束した。あざむいては、ならぬ。いまでは私は、世話しなければならぬその義務の在る数人をさえ持っている。高尚の趣味を有する、極めて小人数の読者は、私の骨の固くなるのを、ひそかに惜しむにちがいない。それは、ありがとう。君は、いつでも優しかった。お達者で、いつまでもお達者で、暮していて下さい。けれども、私は、何もせず、このまま君に甘えては居られない。私は、だまっていては、私自身の明日の食糧にさえ困るのだ。ああ、私が、いますこし、お金持であったら!
それやこれやで、私は、私自身、湖畔の或る古城に忍び入る戦慄《せんりつ》の悪徳物語を、断念せざるを得なくなった。その古城には、オフェリヤに似た美しい孤独の令嬢もいるのだけれど。いまは一切を語らぬ。いい気になって、れいの調子づいて、微にいり細をうがってどろぼうの体験談など語っていると、人は、どうせあいつのことだ、どろぼうくらいは、やったかも知れぬと、ひそひそ囁《ささや》き合って、私は、またまた、とんだ汚名を着せられるやも、はかり難い。それゆえ、このような物語は、私が、もう少し偉くなって、私の人格に対する世評があまり悪くなく、せめて私の現在の実生活そのままを言い伝えられるくらいの評判になったとき、そのときには私も、大胆に「私」という主人公を使って、どのような悪徳のモデルをも、お見せしよう。いまは、いけない。悲しいけれども、いけない。
次に物語る一篇も、これはフィクションである。私は、昨夜どろぼうに見舞われた。そうして、それは嘘であります。全部、嘘であります。そう断らなければならぬ私のばかばかしさ。ひとりで、くすくす笑っちゃった。
ゆうべは、おどろいたのである。笑いごとではない。実に驚いた。生れて、はじめて私はどろぼうに見舞われた。しかも、ばかなこと、私はそのどろぼうと、一問一答をさえ試みてしまったのである。大袈裟《おおげさ》に言えば、私たち二人さしむかいで、一夜をしみじみ語り明かしたのである。もとから私は、どろぼうという種属の人間に、馴れ親んでいるわけではない。冗談ではない。全く、生れて、はじめて、どろぼうという者を見たのである。火事は、中学校四年生のときに、はっきり一ぶしじゅうを見とどけたことがあるけれども、どろぼうは、はじめてなのである。火事は、あれも不思議なものである。私のお隣りの家が焼けているのだけれど、私は、どういうものか、ぼんやりして、二階の窓に頬杖ついて、うっとり見ていた。秋の終りの、朝のことである。手にとるようによく見える、というが、そのときには、実際、お隣りの家の燃えている軒と、私の頬杖ついている窓縁《まどべり》とは、二間と離れていず、やがてお隣りの軒先の柿の木にさえ火が燃え移って、柿の枯葉が、しゃあと涼しい音たてて燃えては黒くちりちり縮み、その燃えている柿の一枝が、私の居る二階の窓から、ほんとうに、ちょっと手を伸ばせば、折り取れるところに在って、それこそ咫尺《しせき》の間《かん》に於いて私は、火事を見ていたのである。軒が燃え出すまでの、焔《ほのお》の順序が面白かった。はじめ軒端を伝って、ちょろちょろ、まるで鼠のように、青白い焔が走って、のこぎりの歯の形で
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