寝なければならぬ。寝る。けれども、すぐには眠れない。絶対に眠れない。からだが不快に、ほてって、頬の皮がつっぱって熱い。転輾《てんてん》する。くるしい。閉口し切って、ナンマンダ、ナンマンダ、と大声挙げて、百遍以上となえたこともある。そんなときに、たまらず起きて、ひやざけを茶碗で二杯、いや三杯も呑むことがある。模範的市民生活も、ここに於いて、少し怪しくなるのである。けれども誤解なさらぬよう。私は、そんな場合に、いささか乱暴な酒の呑みかたは致しますけれども、しかし、それだけのことである。酔って不埒《ふらち》の言行に及ぶことは、断じて無い。呑んで、だまってそのまま、直ぐにまた寝るのである。ぐるぐる酔いがまわって来ても、私は、蒲団《ふとん》の中で、じっとしている。そのうちに眠くなるのである。一先輩は、私のからだを憂慮して、酒をあまり用いぬように忠告した。私は、それに応えて、夜の不眠の苦痛を語った。そのとき、先輩は声をはげまし、
「なにを言うのだ。そんなときこそ、小説の筋を考える、絶好の機会じゃないか。もったいないと思わないか!」
 私は、一言もなかった。ありがたい気がした。五臓《ごぞう》に、しみたのである。それからは、努力した。ともすると鎌首もたげようとする私の不眠の悲鳴を叩き伏せ、叩き伏せ、お念仏一ついまは申さず、歯を食いしばって小説の筋を考え、そうして、もっぱら睡眠の到来を期待しているのである。それは、なかなかの苦しさであった。謂わば、私は、眠りと格闘していた。眠りと勝負を争っていた。長い細い触角でもって虚空を手さぐり、ほのかに、煙くらいの眠りでも捜し当てたからには、逃がすものか、ぎゅっとひっ捕えて、あわてて自分のふところを裁ち割り、無理矢理そのふところの傷口深く、睡眠の煙を詰め込んで、またも、ゆらゆら触角をうごかす。眠りは、ないか。もっと、もっと、深い眠りは無いか。あさましいまでに、私は、熟睡を渇望《かつぼう》する。ああ、私は眠りを求める乞食《こじき》である。
 ゆうべも、私は、そうしていた。ええと、彼女は、いや彼氏は、横浜へ釣りをしに出かけた。横浜には、釣りをするようなところはない。いや、あるかも知れない。ハゼくらいは、いるかも知れない。軍艦が在る。満艦飾である。これを利用しなければ、いけない。ここに於いて多少、時局の色彩を加える。そうすると、人は、私を健康と呼ぶかも
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