き記して在ったように記憶する。私は事実そのような疑問にひっかかり、「私」という主人公を、一ばん性《しょう》のわるい、悪魔的なものとして描出しようと試みた。へんに「いい子」になって、人々の同情をひくよりは、かえって潔《いさぎ》よいことだと思っていた。それが、いけなかったのである。現世には、現世の限度というものが在るらしい。メリメ、ゴオゴリほどの男でも、その生存中には、それを敢えてしなかったし、後世の人こそ、あの小説の悪魔は、ゴオゴリ自身であるとか、メリメその人の残忍性であるとか評して、それはもう古典になれば、どちらでもかまわないことなのである。けれども、メリメにしろ、ゴオゴリにしろ、――また、いま、ふと頗《すこぶ》る唐突に思い浮んだのであるが、シャトオブリアン、パスカルほどの大人物でも、――どのように、その時代の世評を顧慮し、人しれぬ悪戦苦闘をつづけたことか、私はそれに気がつき、涙ぐましくさえなるのだ。
 つくづく思う。輿論を訂正するということは、これは並たいていの仕事ではない。私には、利用すべき地位もない、権力もない、お金もない、何も無い。ただ、ペン一本で、こうして考え考えしながら一字、一字、書いて、それを訂正して行こうとしているのだから、心許《こころもと》ない話である。げに、焼き滅ぼすは一瞬、建設は百年、である。私は、たしかに、いけなかったのだ。私は、生きながらの古典人になろうとしていた。なれるものだと思っていた。あさましく不埒《ふらち》である。きょうよりのちは、世評にも充分の注意を払い、聴くべきは大いに容れ、誤れるは、之《これ》を正す。
 またしても、これは、私生活の上の話ではないか。おまえは、ついさっき、物語のなかに私生活の上の弁解を附加することは邪道であると明言したばかりのところでは無いか。矛盾しないか。矛盾していないのである。そろそろ小説の世界の中にはいって来ているのであるから、読者も、注意が肝要である。
 立ち直る、ということは、さっきも言ったように、これは、容易のことではない。何故といって、私が、どろぼうの話をするに当って、これだけの、ことわり文句が必要であったのである。私は作品に於《お》いてよりも、実生活に就いて、また、私の性格、体質に就いての悪評に於いて、破れかけたのであるから、いま、ひとつのフィクションを物語るにあたっても、これだけの用心が必要な
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