よ。待て、待て。一まいは刺身に、一まいは焼く、という事にしたらいい。もの惜しみをしちゃいけねえ。お前たちも、食べろ。いいかい、お母さんにも、イヤというほど食べさせろ。
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節子、無言で静かに襖をしめる。
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(野中)(にやにや笑いながら一升瓶を持ったまま奥田の机の傍に坐り)どうも、ねえ、漁師まちの先生をしていながら、さかなが食えねえとは、あまりにみじめすぎるよ。
(奥田)(部屋の中央に持ち運んだ鍋《なべ》やら茶碗《ちゃわん》やらを、また部屋の隅《すみ》に片づけながら)さかなは、どうです、いま。新円になってから、すこしは安くなりましたか。
(野中)(苦笑して)安くならねえ。漁師の鼻息ったら、たいしたものさ。平目一まいの値段が、僕たちの一箇月分の給料とほぼ相似たるものだからな。このごろの漁師はもう、子供にお小遣いをねだられると百円札なんかを平気でくれてやっているのだからね。
(奥田) そう、そうらしいですね。(部屋の中央に据《す》えた小さな食卓も部屋の隅に取片づけ)子供たちにあんな大金を持たせるのは、いい事じゃないと思いますがね。子供たちの間で、このごろ、ばくちがはやっているそうじゃありませんか。
(野中) そうらしい。何もかも、滅茶苦茶さ。(語調をかえて)君、その食卓は、そこに置いといたほうがいいよ。金《かね》の話なんか、つまらない。飲もう。茶呑茶碗を二つ貸してくれ。
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奥田、またその小さい食卓を部屋の中央に据えて、それから、茶呑茶碗を取りに縁側へ出る。
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(野中)(その間に、ふと、傍の机の上にある奥田の読みかけの書籍を取り上げて)フランス革命史、なんだ、こんなものを読んでいるのか。よせ、よせ。歴史は繰り返しやしねえ。(軽く書籍を畳の上にほうり出す)歴史は繰り返すなんて、どだい、あれは、君、弁証法を知らんよ、なんてね、僕もこれは一つ、社会党へでもはいって出世をしようかな。つまらない。飲もう! 飲んで鬱《うつ》を晴らそう。汝《なんじ》、無力なる国民学校教師よ。
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二人、小さい食卓をはさんであぐらを掻き、野中は、二つの茶呑茶碗に一升瓶の酒をつぐ。
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(野中) 乾盃! (ぐっと飲む)
(奥田)(飲みかけて、よす)なんですか? これは。ガソリンのようなにおいがしますね。(そのまま茶碗を食卓の上に置く)
(野中) サントリイ。
(奥田) え?
(野中) サントリイウイスキイ。(と言いながら一升瓶を目の高さまで持ち上げ、電燈の光にすかして見て)無色透明なるサントリイウイスキイ。一升百五十円。
(奥田) 冗談じゃない。
(野中) いや、そこが面白いところさ。僕だって知ってるよ、これは薬用アルコールに水を割っただけのものさ。しかしだね、僕にこれをサントリイウイスキイだと言って百五十円でゆずってくれた人は、だ、いいかね、そのひとは、この村の酒飲みのさる漁師だが、このひと自身も、これをサントリイウイスキイという名前の、まことに高級なる飲み物であると信じ切っているんだから愉快じゃないか。つまり、その漁師は、青森あたりにさかなを売りに行って、そうして帰りに青森の闇屋にだまされて、三升、いや、四升かも知れん、サントリイウイスキイなる高級品を仕入れて来て、そうしてきょう朝っぱらから近所の飲み仲間を集めて酒盛りをひらいていた、そこへ僕が、さかなをゆずってもらいに顔を出したというわけだ。たちまち彼等は僕をつかまえ、あなたならばたしかに知っているに違いないが、これはサントリイといってわれらの口には少しもったいなすぎる酒だ、ぜひとも先生に一ぱい飲んでいただきたい、と言って大きい茶碗になみなみとついで突きつける。見ると、かくのごとく無色透明、しかも、この匂い。僕もさすがに躊躇《ちゅうちょ》したよ。れいの、あの、メチルかも知れないしねえ。しかし、僕は、あの漁師たちの、一点疑うところ無き実に誇らしげな表情を見て、たまらなくなり、死を決した。うむ、死を決した。この愚かで無邪気な、そうして哀《かな》しい漁師たちと一緒に死のうと覚悟した。僕は飲んだよ。そんなに味がわるくない。しかも、気持よく、ぽっと酔う。そこでだ、僕は、彼等から一升をわけてもらって、彼等と共に大いに飲んだ。やはり、サントリイに限る、サントリイを飲むと、他の酒はまずくて飲まれん、なんて僕はお世辞を言ってね、そうして妙に悲しかったよ。(言いながら、自分で注いで自分で飲む)あ、そうだ、煙草もあるんだ。吸い給《たま》え。たくさんあるんだ。(上衣《うわぎ》のポケットから、バラの紙巻煙草を一つかみ取り出し、食卓の上に置く)やっぱり、あの漁師たちから、わけてもらって来たんだ。まったく、あいつらのところには、何でもあるなあ。
(奥田)(ほとんど無表情で煙草を一本とり)いただきます。(ズボンのポケットから、マッチを取り出し煙草に点火する)
(野中) みんなあげる。みんなあげるよ。僕には、まだまだたくさんあるんだ。(さらに酒をひとりで注いで飲んで)
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あなたじゃ
ないのよ
あなたじゃ
ない
あなたを
待って
いたのじゃない
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という歌を知っているかね。これはね、「ドアをひらけば」というこの頃の流行歌だがね、知らんのか、君は。聞いた事が無いのかね。これは意外だ。怠慢の二字に尽きる。フランス革命史なんかよりは、現代の流行歌のほうが、少くとも我々にとっては重大ではないか。いやしくも君、国民学校の教師でありながら、君、(言いながら、また酒を注いで飲んで)現代の流行歌一つご存じないとは、君。
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(奥田) 大丈夫ですか? そんなに飲んで。
(野中) 大丈夫、だいじょうぶ。これは君、サントリイウイスキイという高級品じゃないか。馬鹿にするな。君もそんなに気取ってないで一口《ひとくち》まあ、こころみてごらん。
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あなたじゃ
ないのよ
あなたじゃ
ない
あなたを
待って
いたのじゃない
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ちょっといいね、これは。失恋の歌だそうだよ。あわれじゃないか。まあ一つ飲め。(一升瓶を持ち上げる)
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(奥田)(それを制して)いや、僕のはまだここに一ぱいあります。(苦笑しながら、申しわけみたいにちょっと自分の茶碗に口をつけ、すぐまたそれを卓の上に置き)どうも、これは。
(野中) いのちが惜しいか。(笑う)
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上手《かみて》の襖しずかにあく。
野中の妻、節子、大きいお皿二つを捧げてはいって来る。一つのお皿には刺身、一つのお皿には焼《や》き肴《ざかな》。
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(野中) やあ、来た、来た。おう、こりゃまた豪華だね。多すぎるぞ、これあ。
(節子)(にこりともせず、食卓の上を片づけて、その二つの皿を置き)これで、全部でございます。
(野中) 全部? (顔を挙げて、節子の顔を見る)お母さんは? 食べないのか?
(節子)(まじめに)あの、わたくしどもは、ごはんはもう、すみました。
(野中)(憤然と)そうか。(矢庭《やにわ》に食卓をひっくりかえす)久しぶりの平目《ひらめ》じゃないか。お母さんにも、お前にも、みんなに食べてもらいたくて買って来たんだ。それを、なんだ。きたないものみたいにして、気味《きび》のわるいものみたいにして、一口も食べてくれないとは、あまり、あんまり、ひどいじゃないか。(泣き声になる)
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節子、無言で、その辺に散らばった肴を皿の上に拾い集める。
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(野中) やめろ! 拾うのは、やめてくれ。それは皆、捨てちまえ! 拾い集めてもらって、また食べるなんて、あまり惨《みじ》めだ。惨めすぎる。少しは、こっちの気持も察してくれよ。(上衣の内ポケットから、白い角封筒を出し、節子の手もとにほうってやって)まだ、七、八百円は残っている筈《はず》だ。新円だぞ。それで肴を買って来い。たったいま買って来い。ケチケチするな。鯛《たい》でも鮪《まぐろ》でも、漁師の家にあるものを全部を買って来い。ついでに甚兵衛《じんべえ》のところへ寄って、このサントリイウイスキイがまだ残っていたら、もう一升ゆずってもらって来い。これからまた僕は飲み直すんだ。そうして、ぜひとも、お母さんとお前に、肴を食べてもらうんだ。
(節子)(角封筒のほうには目もくれず、黙ってうなだれている。やがて静かに面を挙げて)あの、お伺《うかが》いしたい事がございます。
(野中)(たじろぎ)何だ。何か文句があるのか。
(節子)(緊張した声で)あなたは、いったい、……。
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この時、舞台|下手《しもて》より庭先へ、学童二名|駈《か》け込み、「先生! 奥田先生!」と叫ぶ。
奥田教師、縁側に出る。学童二名、息せき切って何やら奥田教師に囁《ささや》く。
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(奥田)(それを聞いて)そうか、よし。すぐ行く。(部屋へはいって、壁にかけてある自身の上衣をとって着ながら野中に)妹が警察に挙げられました。ばくちです。麻雀賭博《マージャンとばく》を学校の子供たちに教えてやっていたのです。たぶん、そんな事じゃないかと思っていました。ちょっと警察に行って来ます。(会釈《えしゃく》して、縁側に出て、はきものを捜す)
(野中)(蹌踉《そうろう》と立ち上り)僕も行く。
(奥田)(靴をはきながら)だめ、だめ。あなたはもう、どだい、歩けやしませんよ。(学童たちに向い)さ、行こう。
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奥田教師、学童二名と共に舞台|下手《しもて》に走り去る。
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(野中)(夢遊病者の如くほとんど無表情で歩き、縁側から足袋《たび》はだしで降りて)僕も行く。
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野中教師、ほとんど歩行困難の様子だが、よろめき、よろめき、足袋はだしのまま奥田教師たちのあとを追い下手に向う。
節子、冷然と坐ったままでいたのであるが、ふと、膝元《ひざもと》の白い角封筒に眼をとめ、取りあげて立ち、縁側に出てはきものを捜し、野中のサンダルをつっかけ、無言で皆のあとを追う。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ]――舞台、廻る。

     第三場

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舞台は、月下の海浜。砂浜に漁船が三艘あげられている。そのあたりに、一むらがりの枯れた葦《あし》が立っている。
背景は、青森湾。

舞台とまる。

一陣の風が吹いて、漁船のあたりからおびただしく春の枯葉舞い立つ。

いつのまにやら、前場の姿のままの野中教師、音も無く花道より登場。
すこし離れて、その影の如く、妻節子、うなだれてつき従う。
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(野中)(舞台中央まで来て、疲れ果てたる者の如く、かたわらの漁師に倒れるように寄りかかり)ああ、頭が痛い。これあ、ひどい。
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節子、無言で野中に寄り添い、あたりを見廻し、それから白い角封筒をそっと野中に差し出す。角封筒は月光を受けて、鋭く光る。
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