。しかし、僕も、落ちたものだな。菊代さん、まあいいから、その封筒はそちらへ引込めて下さい。
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菊代、封筒を持てあまして、それを、傍の学童の机の上にそっと置く。
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(野中) 御承知のように、僕のところは貧乏です。ひどく貧乏です。どんな人でも、僕の家に間借りして、同じ屋根の下に住んでみたら、田舎教師という者のケチ臭いみじめな日常生活には、あいそが尽きるに違いないんだ。殊《こと》につい最近、東京から疎開《そかい》して来たばかりの若い娘さんの眼には、もうとても我慢の出来ない地獄絵のように見えるかも知れない。しかし、御心配無用なんだ。あなたたちの御同情は、ありがたいけれども、しかし、僕たちの家庭にはまた僕たちの家庭のプライドがあるんだ。かえって僕たちは、あなたたちに同情しているくらいなんだ。そんな、お金なんか、そんな、そんな心配は今後は絶対にしないで下さい。僕たちはあなたたちから毎月もらっている部屋代だって、高すぎると思っているんです。気の毒に思っているんだ。さあ、もう、わかったから、そんなお金なんか、ひっこめて下さい。一緒に家へ帰りましょう。菊代さん! でも、あなたは、(しげしげと菊代の顔を見つめて)いいひとですね。御好意だけは、身にしみて有難く頂戴しました。(軽く笑って)握手しましょう。
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野中教師、右手を差し出す。ぴしゃと小さい音が聞えるほど強く菊代はその野中の掌《てのひら》を撃つ。
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(菊代)(嘲笑《ちょうしょう》の表情で)ああ、きざだ。思いちがいしないでね。間《ま》が抜けて見えるわよ。あたしは何でも知っている。みんな知っている。そんな事をおっしゃっても、あなたたちは、本当はお金がほしいんです。気取らなくたっていいわよ。あなたも、それからあなたの奥さんも、それからお母さんも、みんなお金がほしいのよ。ほしくてほしくて仕様が無いのよ。そのくせ、あなたたちは貧乏じゃない。貧乏だ、貧乏だとおっしゃっているけれども、貧乏じゃない。ちゃんとしたお家《うち》もあれば土地もあるし、着物だって洋服だってたくさんたくさん持っている。それでも、お金がほしいんだ。慾が深いのよ。ケチなのよ。お金よりも、よいものがこの世の中に無いと思い込んでしまっているんだ。それにくらべて、まあ、あたしたちの生活は、どうでしょう。兄は、前からずっとこの土地にいたのだから、あのひとは、べつだけれども、あたしは父とふたりで東京へ出て、大戦がはじまる前だってちっとも楽じゃ無かったし、いよいよ大戦がはじまって、あたしも父の工場に出て職工さんたちと一緒に働くようになった頃から、もう、あたしたちは生きているのだか死んでいるのだか、何が何やら、無我夢中でその日その日を送り迎えして、そのうちに綺麗に焼かれて、いまはあたしたちのものと言ったら、以前こちらに疎開させてあった行李《こうり》五つだけ、本当にもうそれだけなのよ。父がひとり東京に踏みとどまって頑張《がんば》って、あたしだけ、兄のところへやっかいになりに来たのだけれども、本当にあたしには何も無いのよ。何も無いから仕方なくこんないやらしい派手な着物なんかを行李の底から引っぱり出して着ているのだけど、田舎の人たちの眼から見ると、あたしたちがおそろしくぜいたくなお洒落《しゃれ》の衣裳《いしょう》道楽をしているみたいに見えているんじゃないかしら。ところが、それはあべこべで、地味《じみ》な普段着も何も焼いてしまって、こんな十六、七の頃に着た着物しか残っていないので、仕方なく着ているのだわ。お金だって、そのとおり、同じことよ。あたしたちには、もう何も無いのよ。いいえ、兄はあんな真面目《まじめ》くさった性質だから或《ある》いはお金をいくらかためているかも知れないけど、あたしたちにはもう何も無いのよ。手にはいったお金は、もうその場でみんな使ってしまうし、父もあたしも十年間、東京でそんな暮しをして来たのだわ。でも、あたしは、そのあいだ一度だって、お金をほしいと思った事は無かったわ。無ければ無いで、またどんなにかして切り抜けてやって行けたのだもの。だけど、田舎では、そうはいかないのね。田舎では人間の価値を、現金があるか無いかできめてしまうのね。それだけが標準なのだわ。もう冗談も何も無く、つめたく落ちついてそう信じ切ってしまっているのだから、おそろしいわ。ぞっとする事があるわ。どんなにお上品に取りすましていたって、心の中では、やっぱりそうなのだから、いやになるわ。もしあたしにいま一文《いちもん》もお金が無いという事がわかったら、あなたの奥さんも、お母さんも、それから、あなただって、どんなにいやな顔をするでしょう。いいえ、それにきまっているわ。しんそこから、あたしという女を軽蔑《けいべつ》し、薄きたない気味《きび》の悪いものに思うにきまっていますよ。あたしは、うっかり、自分の貧乏を口にすることも出来やしない。あなたたちは違うのよ。あなたたちは、ご自分のことを貧乏だの何だのと言っても、そりゃもうちゃんとした財産のあることが誰にもわかっているのだから、物価が高くて困るとか、このさきどうしようなんておっしゃっても、それはご愛嬌《あいきょう》にもなるけれど、それをもし、あたしたちが言ったらどうでしょう。冗談にもご愛嬌にもなりやしない。ただもう浅間《あさま》しい、みじめな下等な人種として警戒されるくらいのものなのだわ。ばかばかしい。だからあたしたちは、お金のありったけを気前よくぱっぱっと使って見せなければならなくなるのよ。そうするとあなたたちはまた、東京で暮して来た奴等《やつら》は、むだ使いしてだらしがないと言うし、それかと言って、あなたたちと同様にケチな暮し方をするともう、本物《ほんもの》の貧乏人の、みじめな、まるでもう毛虫か乞食《こじき》みたいなあしらいを頂戴するし、いったい、あなたの奥さんなんて、どこが偉くてあんなに気取っているの? 何か、あたしたちと人種が違うの? ひどく取り澄まして、あたしが冗談を言っても笑わず、いつでもあたしたちより一段と高いところにいるひとみたいに振舞っているけど、あれはいったい何さ。美人だって? 笑わせやがる。東京の三流の下宿屋の薄暗い帳場に、あんなヘチマの粕漬《かすづけ》みたいな振《ふる》わない顔をしたおかみさんがいますよ。あたしには、わかっている。あんなひとこそ、誰よりも一ばんお金をほしがっているんだ。慾張っているんだ。ケチなんだ。亭主よりも親よりも、お金だけを尊敬しているんだ。あたしには、わかる。先生、そのお金は、どうぞ奥さんに渡してやって下さい。先生、あたしの味方になってね! あたしは復讐《ふくしゅう》したいんです。先生、その封筒の中には、あなたの奥さんの一ばん喜ぶものがはいっているんです。全部、新円です。あたしが自分でもうけたお金ですから、誰にも遠慮は要《い》らないんです。
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二、三の学童の口笛が聞える。はる、こうろうの花のえん、の曲の合奏である。
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(菊代)(その口笛に聞耳を立て)おや、あたしのお友だちが迎えに来た。行かなくちゃいけない。それじゃあ、お願いしてよ。いいでしょう? 奥さんにね、あたしからだって言わないで、先生から何とか上手《じょうず》に嘘《うそ》ついて奥さんにあげてよ。あのお澄ましの奥さんが、どんな顔をするか、ああ愉快だ。
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菊代、上手《かみて》の出入口に向って走り去る。野中教師、はっと気を取り直して呼びとめる。
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(野中) お待ちなさい、菊代さん。どこへ行くのです。
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菊代、戸口のところに立ち上り、野中教師のほうにくるりと向き直る。口笛は、なお聞えている。
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(菊代)(ほがらかに)お友だちのところへ。
(野中) それじゃあの歌は、あなたが教えてやったのですね?
(菊代)(むしろ得意そうに)そうよ。あたしたちは音楽会をひらくのよ。音楽会をひらいてもうけるのよ。新円をかせぐのよ。はる、こうろう、も、それから、唐人《とうじん》お吉《きち》も、それから青い目をした異人さんという歌も、みんなあたしが教えたのよ。きょうはこれからみんなでお寺に集ってお稽古《けいこ》。うちへ帰るのがおそくなるでしょうから、兄さんにそう言ってね、日本の文化のためですからってね。
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菊代、くすくす笑いながら退場。口笛はなお続く。舞台また少し暗くなる。
野中教師、菊代を二、三歩追いかけ、それから立ちどまり、引返して机の上の角封筒を取り上げ、上衣のポケットに入れて、少し考え、また取り出して封筒の中をしらべる。大型の紙幣、一枚二枚と黙って数える。十枚。あたりを見まわす。また数え直す。
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[#地から3字上げ]――舞台、静かに廻る。

     第二場

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舞台は、国民学校教師、野中弥一宅の奥の六畳間。ここは、奥田義雄、同菊代の兄妹が借りている。
部屋の前方は砂地の庭。草も花もなし。きたなげの所謂《いわゆる》「春の枯葉」のみ、そちこちに散らばっている。

舞台とまる。

弥一の義母しづ、庭の物干竿《ものほしざお》より、たくさんの洗濯物を取り込みのさいちゅう。
菊代の兄、奥田義雄は、六畳間の縁側にしゃがんで七輪《しちりん》をばたばた煽《あお》ぎ煮物をしながら、傍に何やら書籍を置いて読んでいる。
斜陽は既に薄れ、暮靄《ぼあい》の気配。

第一場と同じ日。
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(しづ)(洗濯物を取り込み、それを両腕に一ぱいかかえ、上手《かみて》に立ち去りかけて、ふと縁側のほうを見て立ちどまり)あら、奥田先生、お鍋《なべ》が吹きこぼれていますよ。
(奥田)(あわてて鍋の蓋《ふた》を取り、しづの方を見て苦笑し)妹がまたきょうも、どこかへ飛び出して、帰らないものだから、どうも。
(しづ) おや、おや。それでは、お兄さんもたいへんですね。(笑いながら縁側に近寄り)何を煮ていらっしゃるの?
(奥田)(いそいでまた鍋の蓋をして)いや、これは見せられません。何でもかんでもぶち込んで煮て、そうして眼をつぶって呑《の》み込んでしまうつもりなんです。
(しづ)(声を立てて笑って)本当に、男の方の炊事はお気の毒で、見て居られませんわ。あとで、おしんこか何か持って来てあげましょう。
(奥田)(まじめに)いいえ、何も要りません。学生の頃から十何年間、こんな生活ばかりして来たので、かえって妹と一緒にいて妹のへんに気取った料理などを食べるのは、不愉快なくらいなんです。(書籍を持って立ち上り、部屋へはいって、電燈をつける。それから縁側に面した机に向ってあぐらをかき、つまり、観客に正面を向いて坐って、書籍を机の上に置き、無意識の如くパラパラ書籍のペエジをもてあそびながら、ぶっきらぼうに)女のこさえた料理なんて、僕はいちどもおいしいと思ったことが無いんです。
(しづ)(洗濯物を縁側にそっと置いて、自身も浅く縁側に腰をかけ)それはまあ。(鷹揚《おうよう》に笑って、それからしんみり)お母さんが亡くなって、もう何年になりますかしら。
(奥田)(べつに何の感慨も無げに)僕がここの小学校にはいったとしの夏に死んだのですから、もう二十年にもなります。
(しづ) もう、そんなになりますかねえ。わたくしどもも、お母さんのお葬式の時の事は、よく覚えて
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