た刹那に、肉体も、ともに燃えてあとかたもなく焼失してしまえば、たすかるのだが、そうもいかない。」
「意気地がないのね。」
「ああ、もう、言葉は、いやだ。なんとでも言える。刹那のことは、刹那主義者に問え、だ。手をとって教えてくれる。みんな自分の料理法のご自慢だ。人生への味附けだ。思い出に生きるか、いまのこの刹那に身をゆだねるか、それとも、――将来の希望とやらに生きるか、案外、そんなところから人間の馬鹿と悧巧《りこう》のちがいが、できて来るのかも知れない。」
「あなたは、ばかなの?」
「およしよ、K。ばかも悧巧もない。僕たちは、もっとわるい。」
「教えて!」
「ブルジョア。」
 それも、おちぶれたブルジョア。罪の思い出だけに生きている。ふたり、たいへん興ざめして、そそくさと立ちあがり、手拭い持って、階下の大浴場へ降りて行く。
 過去も、明日も、語るまい。ただ、このひとときを、情にみちたひとときを、と沈黙のうちに固く誓約して、私も、Kも旅に出た。家庭の事情を語ってはならぬ。身のくるしさを語ってはならぬ。明日の恐怖を語ってはならぬ。人の思惑を語ってはならぬ。きのうの恥を語ってはならぬ。ただ、このひととき、せめて、このひとときのみ、静謐《せいひつ》であれ、と念じながら、ふたり、ひっそりからだを洗った。
「K、僕のおなかのここんとこに、傷跡があるだろう? これ、盲腸の傷だよ。」
 Kは、母のように、やさしく笑う。
「Kの脚だって長いけれど、僕の脚、ほら、ずいぶん長いだろう? できあいのズボンじゃ、だめなんだ。何かにつけて不便な男さ。」
 Kは、暗闇の窓を見つめる。
「ねえ、よい悪事って言葉、ないかしら。」
「よい悪事。」私も、うっとり呟《つぶや》いてみる。
「雨?」Kは、ふと、きき耳を立てる。
「谷川だ。すぐ、この下を流れている。朝になってみると、この浴場の窓いっぱい紅葉だ。すぐ鼻のさきに、おや、と思うほど高い山が立っている。」
「ときどき来るの?」
「いいえ。いちど。」
「死にに。」
「そうだ。」
「そのとき遊んだ?」
「遊ばない。」
「今夜は?」Kは、すましている。
 私は笑う。「なあんだ、それがKの、よい悪事か。なあんだ。僕はまた、――」
「なに。」
 私は決意して、「僕と、一緒に死ぬのかと思った。」
「ああ、」こんどは、Kが笑った。「わるい善行って言葉も、あるわよ。」

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