た筈ですが、いつのまにやら、無くなりました。ちっとも惜しい写真ではありません。
 すったもんだの揚句は大病になって、やっと病院から出て千葉県の船橋の町はずれに小さい家を一軒借りて半病人の生活をはじめた時の姿は、これです。ひどく痩《や》せているでしょう? それこそ、骨と皮です。私の顔のようでないでしょう? 自分ながら少し、気味が悪い。爬虫類《はちゅうるい》の感じですね。自分でも、もう命が永くないと思っていました。このころ第一創作集の「晩年」というのが出版せられて、その創作集の初版本に、この写真をいれました。それこそ「晩年の肖像」のつもりでしたが、未だに私は死にもせず、たとえば、昼の蛍みたいに、ぶざまにのそのそ歩きまわっているのです。めっきり、太った。この写真をごらんなさい。二年ほど船橋にいましたが、また東京へ出て来て、それまで六年間一緒に暮していた女のひとともわかれて、独りで郊外の下宿でごろごろしているうちに、こんなに太ってしまいました。最近はまた少し痩せましたけど、この下宿の時代は、私は、もぐらもちのように太っていました。この写真は、すなわち太りすぎて、てれて笑っているところです。「虚構の彷徨《ほうこう》」という私の第二創作集に、この写真を挿入しました。カモノハシという動物に酷似していると言った友人がありました。また、ある友人はなぐさめて、ダグラスという喜劇俳優に似ている、おごれ、と言いました。とにかく、ひどく太ったものです。こんなに太っていると、淋《さび》しい顔をしていても、ちっとも、引立たないものですね。そのころ私は、太っていながら、たいへん淋しかったのですけれど、淋しさが少しも顔にあらわれず、こんな、てれた笑いのような表情になってしまうので、誰にもあまり同情されませんでした。見給え、この湖水の岸にしゃがんで、うつむいて何か考えている写真、これはその頃、先輩たちに連れられて、三宅島へ遊びに行った時の写真ですが、私はたいへん淋しい気持で、こうしてひとりしゃがんでいたのですが、冷静に批判するならば、これはだらしなく居眠りをしているような姿です。少しも憂愁の影が無い。これは、島の王様のA氏が、私の知らぬまに、こっそり写して、そうしてこんなに大きく引伸しをして私に送って下さったものです。A氏は、島一ばんの長者で、そうして詩など作って、謂わば島の王様のようにゆったりと暮している人で、この旅行も、そのA氏の招待だったのです。私たち一行は、この時はずいぶんお世話になりました。筆不精の私は、未だにお礼状も何も差し上げていない仕末ですが、こないだの三宅島爆発では、さぞ難儀をなさったろうと思いながら、これまたれいの筆不精でお見舞い状も差し上げず、東京の作家というものは、ずいぶん義理知らずだと王様も呆れていらっしゃるだろうと思います。
 次は甲府にいた頃の写真です。少しずつ、また痩せて来ました。東京の郊外の下宿から、鞄《かばん》一つ持って旅に出て、そのまま甲府に住みついてしまったのです。二箇年ほど甲府にいて、甲府で結婚して、それからいまの此《こ》の三鷹《みたか》に移って来たのです。この写真は、甲府の武田神社で家内の弟が写してくれたものですが、さすがにもう、老けた顔になっていますね。ちょうど三十歳だったと思います。けれども、この写真でみると、四十歳以上のおやじみたいですね。人並に苦労したのでしょう。ポーズも何も無く、ただ、ぼんやり立っていますね。いや、足もとの熊笹《くまざさ》を珍らしそうに眺めていますね。まるで、ぼけて居ります。それから、この縁側に腰を掛けて、眼をショボショボさせている写真、これも甲府に住んでいた頃の写真ですが、颯爽《さっそう》としたところも無ければ、癇癖《かんぺき》らしい様子もなく、かぼちゃのように無神経ですね。三日も洗面しないような顔ですね。醜悪な感じさえあります。でも、作家の日常の顔は、これくらいでたくさんです。だんだん、ほんものになって来たのかも知れない。つまり、ほんものの俗人ですね。
 あとは皆、三鷹へ来てからの写真です。写真をとってくれる人も多くなって、右むけ、はい、左むけ、はい、ちょっと笑って、はい、という工合いにその人たちの命令のままにポーズを作ったのです。つまらない写真ばかりです。二つ三つ、面白い写真もあります。いや、滑稽《こっけい》な写真と言ったほうが当っている。裸体写真が一枚あります。これは四万《しま》温泉にI君と一緒に行った時、I君は、私のお湯にはいっているところを、こっそりパチリと写してしまったのです。横向きの姿だから、たすかりました。正面だったらたまりません。あぶないところでした。でもこれはI君にたのんで、原板のフィルムも頂戴してしまいました。焼増しなどされては、たまりませんからね。I君には、ずいぶん写してもらいました。これはことしのお正月にK君と二人で、共に紋服を着て、井伏さんのお留守宅(作家井伏鱒二氏は、軍報道班員としてその前年の晩秋、南方に派遣せられたり)へ御年始にあがって、ちょうどI君も国民服を着て御年始に来ていましたが、その時、I君が私たち二人を庭先に立たせて撮影した物です。似合いませんね。へんですね。K君はともかく、私の紋服姿は、まるで、異様ですね。K君の批評に依ると、モーゼが紋服を着たみたいだそうですが、当っていますかね。どうせ、まともではありません。ひどく顔が骨ばって、そうして大きくなったようですね。ごらんなさい。これは或る友人の出版記念会の時の写真ですが、こんなにたくさんの顔が並んでいる中で、ずば抜けて一つ大きい顔があります。私の顔です。羽子板がずらりと並んでいて、その中で際立って大きいのを、三つになるお嬢さんが、あれほしい、あれ買って、とだだをこねて、店のあるじの答えて言うには、お嬢さん、あれはいけません、あれは看板です、という笑い話。こんなに顔が大きくなると、恋愛など、とても出来るものではありません。高麗屋《こうらいや》に似ているそうですね。笑ってはいけません。「汚《きた》な作り」の高麗屋です。もっとも、これは、床屋へはいって、すっぱり綺麗になるというあの「実は」という場面は無くて、おしまいまで、「きたな作り」だそうです。「作り」でもなんでもない、ほんものの「きたな」だった。芝居にも何もなりません。でも、どこか似ているそうですよ。つまり、立派なのですね。物好きな婦人の出現を待つより他は無い。
 調子づいて、馬鹿な事ばかり言いました。あなたともあろうものが、あんな馬鹿話をなさるのはおよしなさい、お客様に軽蔑されるばかりです、もっと真面目なお話が出来ないのですか、まるで三流の戯作者《げさくしゃ》みたいです、と家内から忠告を受けた事もあるのですが、くるしい時に、素直にくるしい表情の浮ぶ人は、さいわいです。緊張している時に、そのまま緊張の姿勢をとれる人は、さいわいです。私は、くるしい時に、ははんと馬鹿笑いしたくなるので困ります。内心大いに緊張している時でも、突然、馬鹿話などはじめたくなるので困ります。「笑いながら、厳粛な事を語れ!」ニイチェもいい事を言います。もっとも、私は、怒る時には、本気に怒ってしまいます。私の表情には、怒りと笑いと、二つしか無いようです。意外にも、表情の乏《とぼ》しい男ですね。このごろは、でも、怒るのも年に一回くらいにしようと思っています。たいてい忍んで、笑っているように心掛けて居ります。そのかわり怒った時には、いや、脅迫がましいような言いかたは、やめましょう。私自身でも不愉快です。怒った時には、怒った時です。この写真をごらんなさい。これは最近の写真です。ジャンパーに、半ズボンという軽装です。乳母車を押していますね。これは、私の小さい女の子を乳母車に乗せて、ちかくの井《い》の頭《かしら》、自然文化園の孔雀《くじゃく》を見せに連れて行くところです。幸福そうな風景ですね。いつまで続く事か。つぎのペエジには、どんな写真が貼《は》られるのでしょう。意外の写真が。



底本:「太宰治全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1989(平成元)年1月31日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
   1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月
入力:柴田卓治
校正:夏海
2000年4月13日公開
2005年10月28日修正
青空文庫作成ファイル:
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