君は、お勝手のカーテンから顔を出して笑った。健康そうな、普通の女性である。しかも、思わず瞠若《どうじゃく》してしまうくらいの美しいひとであった。
「きょうは、弟を連れて来ました。」
 と彼は私を、細君に引き合した。
「あら。」
 と小さく叫んで、素早くエプロンをはずし、私の斜め前に膝をついた。
 私は、私の名前を言ってお辞儀した。
「まあ、それは、それは。いつも、もう細田がお世話になりまして、いちどわたくしもご挨拶《あいさつ》に伺いたいと存じながら、しつれいしておりまして、本当にまあ、きょうは、ようこそ、……」
 云々《うんぬん》と、普通の女の挨拶を述べるばかりで、すこしも狂信者らしい影が無い。
「うむ、これで母と子の対面もすんだ。それでは、いよいよインフレーションの救助に乗り出す事にしましょう。まず、新鮮な水を飲まなければいけない。お母さん、薬缶《やかん》を貸して下さい。私が井戸から汲《く》んでまいります。」
 細田氏ひとりは、昂然たるものである。
「はい、はい。」
 何気ないような快活な返事をして、細君は彼に薬缶を手渡す。
 彼が部屋を出てから、すぐに私は細君にたずねた。
「いつから、あんなになったのですか?」
「え?」
 と、私の質問の意味がわからないような目つきで、無心らしく反問する。
 私のほうで少しあわて気味になり、
「あの、細田さん、すこし興奮していらっしゃるようですけど。」
「はあ、そうでしょうかしら。」
 と言って笑った。
「大丈夫なんですか?」
「いつも、おどけた事ばかり言って、……」
 平然たるものである。
 この女は、夫の発狂に気附いていないのだろうか。私は頗《すこぶ》る戸惑った。
「お酒でもあるといいんですけど、」と言って立ち上り、電燈のスイッチをひねって、「このごろ細田は禁酒いたしましたもので、配給のお酒もよそへ廻してしまいまして、何もございませんで、失礼ですけど、こんなものでも、いかがでございますか。」
 と落ちついて言って私に蜜柑《みかん》などをすすめる。電気をつけてみると、部屋が小綺麗《こぎれい》に整頓《せいとん》せられているのがわかり、とても狂人の住んでいる部屋とは思えない。幸福な家庭の匂いさえするのである。
「いやもう何も、おかまいなく。私はこれで失礼しましょう。細田さんが何だか興奮していらっしゃるようでしたから、心配して、お宅
前へ 次へ
全8ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング