し、ここからここまでという努力の限界を与えられたら、どんなに気持が助かるかわからない。うんと固くしばってくれると、かえって有難いのだ。戦地で働いている兵隊さんたちの欲望は、たった一つ、それはぐっすり眠りたい欲望だけだ、と何かの本に書かれて在ったけれど、その兵隊さんの苦労をお気の毒に思う半面、私は、ずいぶんうらやましく思った。いやらしい、煩瑣《はんさ》な堂々めぐりの、根も葉もない思案の洪水から、きれいに別れて、ただ眠りたい眠りたいと渇望している状態は、じつに清潔で、単純で、思うさえ爽快《そうかい》を覚えるのだ。私など、これはいちど、軍隊生活でもして、さんざ鍛われたら、少しは、はっきりした美しい娘になれるかも知れない。軍隊生活しなくても、新ちゃんみたいに、素直な人だってあるのに、私は、よくよく、いけない女だ。わるい子だ。新ちゃんは、順二さんの弟で、私とは同じとしなんだけれど、どうしてあんなに、いい子なんだろう。私は、親類中で、いや、世界中で、一ばん新ちゃんを好きだ。新ちゃん、目が見えないんだ。わかいのに、失明するなんて、なんということだろう。こんな静かな晩は、お部屋にお一人でいらして、どんな気持だろう。私たちなら、侘《わ》びしくても、本を読んだり、景色を眺めたりして、幾分それをまぎらかすことが出来るけれど、新ちゃんには、それができないんだ。ただ、黙っているだけなんだ。これまで人一倍、がんばって勉強して、それからテニスも、水泳もお上手だったのだもの、いまの寂しさ、苦しさはどんなだろう。ゆうべも新ちゃんのことを思って、床にはいってから五分間、目をつぶってみた。床にはいって目をつぶっているのでさえ、五分間は長く、胸苦しく感じられるのに、新ちゃんは、朝も昼も夜も、幾日も幾月も、何も見ていないのだ。不平を言ったり、癇癪《かんしゃく》を起したり、わがまま言ったりして下されば、私もうれしいのだけれど、新ちゃんは、何も言わない。新ちゃんが不平や人の悪口言ったのを聞いたことがない。その上いつも明るい言葉遣い、無心の顔つきをしているのだ。それがなおさら、私の胸に、ピンと来てしまう。
あれこれ考えながらお座敷を掃《は》いて、それから、お風呂をわかす。お風呂番をしながら、蜜柑箱《みかんばこ》に腰かけ、ちろちろ燃える石炭の灯をたよりに学校の宿題を全部すましてしまう。それでも、まだお風呂がわかな
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