る時、急に他郷がこわくなって、これから知らぬ新しい境へ引き摩《ず》られて行くよりは、寧《むし》ろ此海の沈黙の中へ身を投げようかと思うようなものである。
 そこで女房は死のうと決心して、起ち上がって元気好く、項《うなじ》を反《そら》せて一番近い村をさして歩き出した。
 女房は真っ直に村役場に這入《はい》って行ってこう云った。「あの、どうぞわたくしを縛って下さいまし、わたくしは決闘を致しまして、人を一人殺しました。」

    第五

 決闘の次第は、前回に於いて述べ尽しました。けれども物語は、それで終っているのではありません。火事は一夜で燃え尽しても、火事場の騒ぎは、一夜で終るどころか、人と人との間の疑心、悪罵《あくば》、奔走《ほんそう》、駈引《かけひ》きは、そののち永く、ごたついて尾を引き、人の心を、生涯とりかえしつかぬ程に歪曲《わいきょく》させてしまうものであります。この、前代未聞の女同士の決闘も、とにかく済んだ。意外にも、女房が勝って、女学生が殺された。その有様を、ずるい、悪徳の芸術家が、一つあまさず見とどけて、的確の描写を為し、成功して写実の妙手と称《たた》えられた。さて、それか
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