詩を二三行書くともなく書きとどめ、新刊の書物の数頁を読むともなく読み終ると、『いやに胸騒ぎがするな』と呟《つぶや》きながら、小机の抽斗《ひきだし》から拳銃を取り出したが、傍のソファに悠然と腰を卸《おろ》してから、胸に銃口を当てて引金を引いた。」之《これ》が、かの悪徳の夫の最後でありました、と言えば、かのリイル・アダン氏の有名なる短篇小説の結末にそっくりで、多少はロマンチックな匂いも発して来るのでありますが、現実は、決して、そんなに都合よく割り切れず、此の興覚めの強力な実体を見た芸術家は立って、ふらふら外へ出て、そこらを暫《しばら》く散歩し、やがてまた家へ帰り、部屋を閉め切って、さてソファにごろりと寝ころび、部屋の隅の菖蒲《しょうぶ》の花を、ぼんやり眺め、また徐《おもむ》ろに立ち上り菖蒲の鉢に水差しの水をかけてやり、それから、いや、別に変った事も無く、翌《あく》る日も、その翌る日も、少くとも表面は静かな作家の生活をつづけていっただけの事でありました。失敗の短篇「女の決闘」をも、平気を装って、その後間も無く新聞に発表しました。批評家たちは、その作品の構成の不備を指摘しながらも、その描写の生々しさを、賞讃することを忘れませんでした。どうやら、佳作、という事に落ちついた様子であります。けれども芸術家は、その批評にも、まるで無関心のように、ぼんやりしていました。それから、驚くべきことには、実にくだらぬ通俗小説ばかりを書くようになりました。いちど、いやな恐るべき実体を見てしまった芸術家は、それに拠っていよいよ人生観察も深くなり、その作品も、所謂《いわゆる》、底光りして来るようにも思われますが、現実は、必ずしもそうでは無いらしく、かえって、怒りも、憧《あこが》れも、歓びも失い、どうでもいいという白痴の生きかたを選ぶものらしく、この芸術家も、あれ以来というものは、全く、ふやけた浅墓《あさはか》な通俗小説ばかりを書くようになりました。かつて世の批評家たちに最上級の言葉で賞讃せられた、あの精密の描写は、それ以後の小説の片隅にさえ、見つからぬようになりました。次第に財産も殖《ふ》え、体重も以前の倍ちかくなって、町内の人たちの尊敬も集り、知事、政治家、将軍とも互角の交際をして、六十八歳で大往生いたしました。その葬儀の華やかさは、五年のちまで町内の人たちの語り草になりました。再び、妻はめとら
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