す。決闘の結果は予期とは相違していましたが、兎《と》に角《かく》わたくしは自分の恋愛を相手に渡すのに、身を屈めて、余儀なくせられて渡すのでは無く、名誉を以て渡そうとしたのだと云うだけの誇を持っています。」
「どうぞ聖者の毫光《ごうこう》を御尊敬なさると同じお心持で、勝利を得たものの額の月桂冠を御尊敬なすって下さいまし。」
「どうぞわたくしの心の臓をお労《いた》わりなすって下さいまし。あなたの御尊信なさる神様と同じように、わたくしを大胆に、偉大に死なせて下さいまし。わたくしは自分の致した事を、一人で神様の前へ持って参ろうと存じます。名誉ある人妻として持って参ろうと存じます。わたくしは十字架に釘付けにせられたように、自分の恋愛に釘付けにせられて、数多の創から血を流しています。こんな恋愛がこの世界で、この世界にいる人妻のために、正当な恋愛でありましたか、どうでしたか、それはこれから先の第三期の生活に入ったなら、分かるだろうと存じます。わたくしが、この世に生れる前と、生れてからとで経験しました、第一期、第二期の生活では、それが教えられずにしまいました。」
 ここまで書いて来て、かの罪深き芸術家は、筆を投じてしまいました。女房の遺書の、強烈な言葉を、ひとつひとつ書き写している間に、異様な恐怖に襲われた。背骨を雷に撃たれたような気が致しました。実人生の、暴力的な真剣さを、興覚めする程に明確に見せつけられたのであります。たかが女、と多少は軽蔑を以て接して来た、あの女房が、こんなにも恐ろしい、無茶なくらいの燃える祈念で生きていたとは、思いも及ばぬ事でした。女性にとって、現世の恋情が、こんなにも焼き焦げる程ひとすじなものとは、とても考えられぬ事でした。命も要らぬ、神も要らぬ、ただ、ひとりの男に対する恋情の完成だけを祈って、半狂乱で生きている女の姿を、彼は、いまはじめて明瞭に知る事が出来たのでした。彼は、もともと女性軽蔑者でありました。女性の浅間《あさま》しさを知悉《ちしつ》しているつもりでありました。女性は男に愛撫されたくて生きている。称讃されたくて生きている。我利我利。淫蕩《いんとう》。無智。虚栄。死ぬまで怪しい空想に身悶《みもだ》えしている。貪慾《どんよく》。無思慮。ひとり合点。意識せぬ冷酷。無恥厚顔。吝嗇《りんしょく》。打算。相手かまわぬ媚態《びたい》。ばかな自惚《うぬぼ》れ。
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