は今すぐあなたを、未決檻に送るつもりでいたのですよ。殺人|幇助《ほうじょ》という立派な罪名があります。
以上は、かの芸術家と、いやらしく老獪《ろうかい》な検事との一問一答の内容でありますが、ただ、これだけでは私も諸君も不満であります。「いいえ、私は、どちらも生きてくれ、と念じていました。」という一言を信じて、検事は、この男を無罪放免という事にした様子でありますが、私たちの心の中に住んでいる小さい検事は、なかなか疑い深くて、とてもこの男を易々と放免することが出来ないのであります。この男は、予審の検事を、だましたのではないでしょうか。「どちらも生きてくれ、と念じていました。」というのは、嘘ではないか。この男は、あの決闘のとき、白樺の木の蔭に隠れて、ああ、どっちも死ね! 両方死ね、いやいや、女房だけ死ね! 女房を殺してくれ、と全身に油汗を流して念じていた瞬間が、在ったじゃないか。確かに在った。この男は、あれを忘れているのであろうか。或いはちゃんと覚えている癖《くせ》に、成長した社会人特有の厚顔無恥の、謂わば世馴れた心から、けろりと忘れた振りして、平気で嘘を言い、それを取調べる検事も亦《また》、そこのところを見抜いていながら、その追究を大人気《おとなげ》ないものとして放棄し、とにかく話の筋が通って居れば、それで役所の書類作成に支障は無し、自分の勤めも大過無し、正義よりも真実よりも自分の職業の無事安泰が第一だと、そこは芸術家も検事も、世馴れた大人同士の暗黙の裏の了解ができて、そこで、「どちらも生きてくれと念じていました。」「よろしい、信頼しましょう。」ということになったのでは無いでしょうか。けれども、その疑惑は、間違っています。私は、それに就いて、いま諸君に、僭越《せんえつ》ながら教えなければなりません。その時の、男の答弁は正しいのです。また、その一言を信頼し、無罪放免した検事の態度も正しいのです。決してお互い妥協しているのではありません。男は、あの決闘の時、女房を殺せ! と願いました。と同時に、決闘やめろ! 拳銃からりと投げ出して二人で笑え、と危く叫ぼうとしたのであります。人は、念々と動く心の像すべてを真実と見做《みな》してはいけません。自分のものでも無い或る卑しい想念を、自分の生れつきの本性の如く誤って思い込み、悶々している気弱い人が、ずいぶん多い様子であります。卑しい
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