十、十一と、それから四箇年のあいだに全部発表してしまったが、書いたのは、おもに昭和七、八の両年であった。ほとんど二十四歳と二十五歳の間の作品なのである。私はそれからの二、三年間は、人から言われる度に、ただその紙袋の中から、一篇ずつ取り出して与えると、それでよかった。
 昭和八年、私が二十五歳の時に、その「海豹」という同人雑誌の創刊号に発表した「魚服記」という十八枚の短篇小説は、私の作家生活の出発になったのであるが、それが意外の反響を呼んだので、それまで私の津軽訛《つがるなま》りの泥臭い文章をていねいに直して下さっていた井伏さんは驚き、「そんな、評判なんかになる筈《はず》は無いんだがね。いい気になっちゃいけないよ、何かの間違いかもわからない。」
 と実に不安そうな顔をしておっしゃった。
 そうして井伏さんはその後も、また、いつまでも、或《ある》いは何かの間違いかもわからない、とハラハラしていらっしゃる。永遠に私の文章に就いて不安を懐《いだ》いてくれる人は、この井伏さんと、それからの津軽の生家の兄かも知れない。このお二人は、共にことし四十八歳。私より十一、年上であって、兄の頭は既に禿《は》
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