人雑誌に発表したのである。昭和八年である。私が弘前《ひろさき》の高等学校を卒業し、東京帝大の仏蘭西《フランス》文科に入学したのは昭和五年の春であるから、つまり、東京へ出て三年目に小説を発表したわけである。けれども私が、それらの小説を本気で書きはじめたのは、その前年からの事であった。その頃の事情を「東京八景」には次のように記《しる》されてある。
「けれども私は、少しずつ、どうやら阿呆《あほう》から眼ざめていた。遺書を綴《つづ》った。「思い出」百枚である。今では、この「思い出」が私の処女作という事になっている。自分の幼時からの悪を、飾らずに書いて置きたいと思ったのである。二十四歳の秋の事である。草|蓬々《ぼうぼう》の広い廃園を眺《なが》めながら、私は離れの一室に坐って、めっきり笑を失っていた。私は、再び死ぬつもりでいた。きざと言えば、きざである。いい気なものであった。私は、やはり、人生をドラマと見做《みな》していた。いや、ドラマを人生と見做していた。(中略)けれども人生は、ドラマでなかった。二幕目は誰も知らない。「滅び」の役割を以《もっ》て登場しながら、最後まで退場しない男もいる。小さい遺
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