ます。もっとも、いまの自由主義者というのは、タイプが少し違っているようですが、フランスの十七世紀のリベルタンってやつは、まあたいていそんなものだったのです。花川戸《はなかわど》の助六《すけろく》も鼠小僧《ねずみこぞう》の次郎吉《じろきち》も、或いはそうだったのかも知れませんね。」
「へええ、そんなわけの事になるますかねえ。」とかっぽれは、大喜びである。
 越後獅子も、スリッパの破れを縫いながら、にやりと笑う。
「いったいこの自由思想というものは、」と固パンはいよいよまじめに、「その本来の姿は、反抗精神です。破壊思想といっていいかも知れない。圧制や束縛が取りのぞかれたところにはじめて芽生える思想ではなくて、圧制や束縛のリアクションとしてそれらと同時に発生し闘争すべき性質の思想です。よく挙げられる例ですけれども、鳩が或る日、神様にお願いした、『私が飛ぶ時、どうも空気というものが邪魔になって早く前方に進行できない。どうか空気というものを無くして欲しい。』神様はその願いを聞き容《い》れてやった。然《しか》るに鳩は、いくらはばたいても飛び上る事が出来なかった。つまりこの鳩が自由思想です。空気の抵抗があってはじめて鳩が飛び上る事が出来るのです。闘争の対象の無い自由思想は、まるでそれこそ真空管の中ではばたいている鳩のようなもので、全く飛翔《ひしょう》が出来ません。」
「似たような名前の男がいるじゃないか。」と越後獅子はスリッパを縫う手を休めて言った。
「あ、」と固パンは頭のうしろを掻《か》き、「そんな意味で言ったのではありません。これは、カントの例証です。僕は、現代の日本の政治界の事はちっとも知らないのです。」
「しかし、多少は知っていなくちゃいけないね。これから、若い人みんなに選挙権も被選挙権も与えられるそうだから。」と越後は、一座の長老らしく落ちつき払った態度で言い、「自由思想の内容は、その時、その時で全く違うものだと言っていいだろう。真理を追究して闘った天才たちは、ことごとく自由思想家だと言える。わしなんかは、自由思想の本家本元は、キリストだとさえ考えている。思い煩《わずら》うな、空飛ぶ鳥を見よ、播《ま》かず、刈らず、蔵に収めず、なんてのは素晴らしい自由思想じゃないか。わしは西洋の思想は、すべてキリストの精神を基底にして、或いはそれを敷衍《ふえん》し、或いはそれを卑近にし、或いはそれを懐疑し、人さまざまの諸説があっても結局、聖書一巻にむすびついていると思う。科学でさえ、それと無関係ではないのだ。科学の基礎をなすものは、物理界に於いても、化学界に於いても、すべて仮説だ。肉眼で見とどける事の出来ない仮説から出発している。この仮説を信仰するところから、すべての科学が発生するのだ。日本人は、西洋の哲学、科学を研究するよりさきに、まず聖書一巻の研究をしなければならぬ筈だったのだ。わしは別に、クリスチャンではないが、しかし日本が聖書の研究もせずに、ただやたらに西洋文明の表面だけを勉強したところに、日本の大敗北の真因があったと思う。自由思想でも何でも、キリストの精神を知らなくては、半分も理解できない。」(中略)
「十年一日の如き、不変の政治思想などは迷夢に過ぎない。キリストも、いっさい誓うな、と言っている。明日の事を思うな、とも言っている。実に、自由思想家の大先輩ではないか。狐《きつね》には穴あり、鳥には巣あり、されど人の子には枕《まくら》するところ無し、とはまた、自由思想家の嘆きといっていいだろう。一日も安住を許されない。その主張は、日々にあらたに、また日にあらたでなければならぬ。日本に於いて今さら昨日の軍閥官僚を罵倒《ばとう》してみたって、それはもう自由思想ではない。それこそ真空管の中の鳩である。真の勇気ある自由思想家なら、いまこそ何を措《お》いても叫ばなければならぬ事がある。天皇陛下万歳! この叫びだ。昨日までは古かった。古いどころか詐欺だった。しかし、今日に於いては最も新しい自由思想だ。十年前の自由と、今日の自由とその内容が違うとはこの事だ。それはもはや、神秘主義ではない。人間の本然の愛だ。アメリカは自由の国だと聞いている。必ずや、日本のこの真の自由の叫びを認めてくれるに違いない。」(後略)



底本:「グッド・バイ」新潮文庫、新潮社
   1972(昭和47)年7月30日発行
   1985(昭和60)年7月15日29刷
初出:「文化展望」
   1946(昭和21)年4月号
入力:土屋隆
校正:田中敬三
2009年2月3日作成
青空文庫作成ファイル:
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