のを、陰でこそこそ、負けるぞ負けるぞ、と自分ひとり知ってるような顔で囁《ささや》いて歩いている人の顔も、あんまり高潔でない。
私はそのように「日本の味方」のつもりでいたのであるが、しかし時の政府には、やっぱりどうも信用が無かったようである。情報局の注意人物というデマが飛び、私に、原稿を依頼する出版社が無くなってしまった。しみったれた事を言うようであるが、生活費はどんどんあがるし、子供は殖えるし、それに収入がまるで無いんだから、心細いこと限りない。当時は私だけでなく、所謂《いわゆる》純文芸の人たち全部、火宅の形相を呈していたらしい。しかし、他の人たちにはたいてい書画|骨董《こっとう》などという財産もあり、それを売り払ってどうにかやっていたらしいが、私にはそんな財産らしいものは何も無かった。これで私が出征でもしたら、家族はひどい事になるだろうと思ったが、どういうわけか、とうとう私には召集令状が来なかった。安易にこんな事は口にしたくないが、神の配慮、という事を思わずにはいられない。私はねばって、とにかく小説を書きとおした。
戦争成金のほかは、誰しも今は苦しいのだから、自分ひとりの生活苦は言うまいと思って努めて快活のふうを装っていたが、それでも、あまりに心細くて、或る先輩にあてこんな意味の手紙を書いて出した事がある。
拝啓。この手紙は、あなたに何かお願いする手紙でもないし、また訴えの手紙でもありませんし、また誰かを非難しようとする手紙でも無いのです。私は家の者にも、打ち明けていない事実を、せめて、あなたひとりに知って置いてもらいたくてこの手紙を書くのです。あなたがしかしこの事実を知ったからとて、何をなさって下さるにも及びません。私には、そんな期待は無いのです。ただ、この事実を知って置いて下さったらそれでいいのです。そうしてこの手紙を御一読なさったら、黙って破り棄《す》てて下さい。お願いします。他の人にもおっしゃらないように。
私は、いま、自殺という事を考えています。しかし、こらえています。妻子がふびん、というよりは、私は日本国民として、私の自殺が外国の宣伝材料などになってはたまらぬ、また、戦地へ行っている私の若い友人たちが、私の自殺を聞いてどんな気がするか、それを考えて、こらえています。なぜ、自殺の他に途《みち》が無いか。それは、あなたもご存じの筈です。ただ、私には財産が無いので、他の人よりも苦しみが強く来ました。私のことしの収入は、××円です。そうして、いま手許《てもと》に残っているお金は、××円です。しかし、私は誰からもお金を借りないつもりです。故郷の兄に、よっぽど借金申込みの手紙を出そうかと、思った夜もございましたが、やめにしました。こうなると、糞意地です。私は死ぬる前夜まで、大いに景気のいい顔をしてはしゃいでいるつもりです。そうして、あくまでも小説だけを書いて行きます。しかし、まさか、戦争|礼讃《らいさん》の小説などは書く気はしません。
たったこれだけの事ですが、あなたに知って置いていただきたいと思います。私の身にも、いつ、どのような事があるかわかりませんから。この手紙には、御返事も何も要りません。御一読後は、ただちに破棄して下さい。以上。
だいたい、こんな意味の手紙を、その先輩にこっそり出した事がある。愚痴をこぼしてさえ、非国民あつかいを受けなければならなかったのだから、思えば、ひどい時代だった。
そんな手紙を出して、一箇月ばかり経った頃、私はその先輩と偶然、新宿で出逢《であ》った。私たちは何も言わずに黙って一緒に歩いた。しばらくして、その先輩が言った。
「君のあの手紙を読んだ。」
「そう。すぐ破ってくれましたか。」
「ああ、破った。」
それだけだった。その先輩もまた、その頃は私以上につらい立場に置かれていたらしい。
とにもかくにも、そんな生活をいつまでも続けているわけにはいかなかった。何とかして窮迫した生計の血路をひらかなければいけない。
私は或る出版社から旅費をもらい、津軽旅行を企てた。その頃日本では、南方へ南方へと、皆の関心がもっぱらその方面にばかり集中せられていたのであるが、私はその正反対の本州の北端に向って旅立った。自分の身も、いつどのような事になるかわからぬ。いまのうちに自分の生れて育った津軽を、よく見て置こうと思い立ったのである。
私は所謂純粋の津軽の百姓として生れ、小学、中学、高等学校と二十年間も津軽で育ちながら、津軽の五つ六つの小都市、町村を知っているに過ぎなかった。中学時代の夏冬の休暇には、自分の生家でごろごろしていて、兄たちの蔵書を手当り次第読みちらし、どこへ旅行しようともしなかったし、また高等学校時代の休暇には、東京にいる彫刻家の、兄のところへ遊びに行き、ほとんど生家に帰らず、東
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