くさくて、決していいものでないけれども、たしか「芸術家」と題する一枚の画があった。それは大海の孤島に緑の葉の繁ったふとい樹木が一本|生《は》えていて、その樹の蔭《かげ》にからだをかくして小さい笛を吹いているまことにどうも汚ならしいへんな生き物がいる。かれは自分の汚いからだをかくして笛を吹いている。孤島の波打際《なみうちぎわ》に、美しい人魚があつまり、うっとりとその笛の音に耳を傾けている。もし彼女が、ひとめその笛の音の主の姿を見たならば、きゃっと叫んで悶絶《もんぜつ》するに違いない。芸術家はそれゆえ、自分のからだをひた隠しに隠して、ただその笛の音だけを吹き送る。
ここに芸術家の悲惨な孤独の宿命もあるのだし、芸術の身を切られるような真の美しさ、気高さ、えい何と言ったらいいのか、つまり芸術さ、そいつが在るのだ。
私は断言する。真の芸術家は醜いものだ。喫茶店のあの気取った色男は、にせものだ。アンデルセンの「あひるの子」という話を知っているだろう。小さな可愛《かわい》いあひるの雛《ひな》の中に一匹、ひどくぶざまで醜い雛がまじっていて、皆の虐待と嘲笑《ちょうしょう》の的になる。意外にもそれは、スワンの雛であった。巨匠の青年時代は、例外なく醜い。それは決してサロン向きの可愛げのあるものでは無かった。
お上品なサロンは、人間の最も恐るべき堕落だ。しからば、どこの誰をまずまっさきに糾弾すべきか。自分である。私である。太宰治とか称する、この妙に気取った男である。生活は秩序正しく、まっ白なシーツに眠るというのは、たいへん結構な事だが、(それは何としても否定できない魅力である!)しかし、自分ひとり大いに努力してその境地を獲得した途端に、急に人が変って様子ぶった男になり、かねてあんなに憎悪《ぞうお》していたサロンにも出入し、いや出入どころか、自分からチャチなサロンを開設し半可通どもの先生になりはしないか。何せどうも、気が弱くてだらしない癖に、相当虚栄心も強くて、ひとにおだてられるとわくわくして何をやり出すかわかったもんじゃない男なのだから。
私はそのような成行きに対して、極度におびえていた。私がもしサロン的なお上品の家庭生活を獲得したならば、それは明らかに誰かを裏切った事になると考えていた。私は、いやらしいくらいに小心な債務家のようなものであった。
私は私の家庭生活を、つぎつぎと破壊した。破壊しようとする強い意志が無くとも、おのずから、つぎつぎと崩壊した。私が昭和五年に弘前の高等学校を卒業して大学へはいり、東京に住むようになってから今まで、いったい何度、転居したろう。その転居も、決して普通の形式ではなかった。私はたいてい全部を失い、身一つでのがれ去り、あらたにまた別の土地で、少しずつ身のまわりの品を都合するというような有様であった。戸塚。本所《ほんじょ》。鎌倉の病室。五反田《ごたんだ》。同朋町《どうほうちょう》。和泉町《いずみちょう》。柏木《かしわぎ》。新富町《しんとみちょう》。八丁堀。白金三光町《しろがねさんこうちょう》。この白金三光町の大きな空家《あきや》の、離れの一室で私は「思い出」などを書いていた。天沼《あまぬま》三丁目。天沼一丁目。阿佐《あさ》ヶ|谷《や》の病室。経堂《きょうどう》の病室。千葉県船橋。板橋の病室。天沼のアパート。天沼の下宿。甲州|御坂峠《みさかとうげ》。甲府市の下宿。甲府市郊外の家。東京都下|三鷹町《みたかまち》。甲府水門町。甲府新柳町。津軽。
忘れているところもあるかも知れないが、これだけでも既に二十五回の転居である。いや、二十五回の破産である。私は、一年に二回ずつ破産してはまた出発し直して生きて来ていたわけである。そうしてこれから私の家庭生活は、どういう事になるのか、まるっきり見当もつかない。
以上挙げた二十五箇所の中で、私には千葉船橋町の家が最も愛着が深かった。私はそこで、「ダス・ゲマイネ」というのや、また「虚構の春」などという作品を書いた。どうしてもその家から引き上げなければならなくなった日に、私は、たのむ! もう一晩この家に寝かせて下さい、玄関の夾竹桃《きょうちくとう》も僕が植えたのだ、庭の青桐《あおぎり》も僕が植えたのだ、と或る人にたのんで手放しで泣いてしまったのを忘れていない。一ばん永く住んでいたのは、三鷹町|下連雀《しもれんじゃく》の家であろう。大戦の前から住んでいたのだが、ことしの春に爆弾でこわされたので、甲府市水門町の妻の実家へ移転した。しかるに、移転して三月目にその家が焼夷弾《しょういだん》で丸焼けになったので、まちはずれの新柳町の或る家へ一時立ち退き、それからどうせ死ぬなら故郷で、という気持から子供二人を抱《かか》えて津軽の生家へ来たのであるが、来て二週目に、あの御放送があった、というのが
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