、まさに田舎者そのものである。しかし、私はこれからこそ、この田舎者の要領の悪さ、拙劣さ、のみ込みの鈍さ、単純な疑問でもって、押し通してみたいと思っている。いまの私が、自身にたよるところがありとすれば、ただその「津軽の百姓」の一点である。
 十五年間、私は故郷から離れていたが、故郷も変らないし、また、私も一向に都会人らしく垢抜《あかぬ》けていないし、いや、いよいよ田舎臭く野暮《やぼ》ったくなるばかりである。「サロン思想」は、いよいよ私と遠くなる。
 このごろ私は、仙台の新聞に「パンドラの匣《はこ》」という長篇小説を書いているが、その一節を左に披露して、この悪夢に似た十五年間の追憶の手記を結ぶ事にする。
(前略)嵐《あらし》のせいであろうか、或《ある》いは、貧しいともしびのせいであろうか、その夜は私たち同室の者四人が、越後獅子《えちごじし》の蝋燭《ろうそく》の火を中心にして集まり、久し振りで打ち解けた話を交《かわ》した。
「自由主義者ってのは、あれは、いったい何ですかね?」と、かっぽれは如何《いか》なる理由からか、ひどく声をひそめて尋ねる。
「フランスでは、」と固パンは英語のほうでこりたからであろうか、こんどはフランスの方面の知識を披露する。「リベルタンってやつがあって、これがまあ自由思想を謳歌《おうか》してずいぶんあばれ廻ったものです。十七世紀と言いますから、いまから三百年ほど前の事ですがね。」と、眉《まゆ》をはね上げてもったいぶる。「こいつらは主として宗教の自由を叫んで、あばれていたらしいです。」
「なんだ、あばれんぼうか。」とかっぽれは案外だというような顔で言う。
「ええ、まあ、そんなものです。たいていは、無頼漢みたいな生活をしていたのです。芝居なんかで有名な、あの、鼻の大きいシラノ、ね、あの人なんかも当時のリベルタンのひとりだと言えるでしょう。時の権力に反抗して、弱きを助ける。当時のフランスの詩人なんてのも、たいていもうそんなものだったのでしょう。日本の江戸時代の男伊達《おとこだて》とかいうものに、ちょっと似ているところがあったようです。」
「なんて事だい、」とかっぽれは噴《ふ》き出して、「それじゃあ、幡随院《ばんずいいん》の長兵衛《ちょうべえ》なんかも自由主義者だったわけですかねえ。」
 しかし、固パンはにこりともせず、
「そりゃ、そう言ってもかまわないと思い
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