壊した。破壊しようとする強い意志が無くとも、おのずから、つぎつぎと崩壊した。私が昭和五年に弘前の高等学校を卒業して大学へはいり、東京に住むようになってから今まで、いったい何度、転居したろう。その転居も、決して普通の形式ではなかった。私はたいてい全部を失い、身一つでのがれ去り、あらたにまた別の土地で、少しずつ身のまわりの品を都合するというような有様であった。戸塚。本所《ほんじょ》。鎌倉の病室。五反田《ごたんだ》。同朋町《どうほうちょう》。和泉町《いずみちょう》。柏木《かしわぎ》。新富町《しんとみちょう》。八丁堀。白金三光町《しろがねさんこうちょう》。この白金三光町の大きな空家《あきや》の、離れの一室で私は「思い出」などを書いていた。天沼《あまぬま》三丁目。天沼一丁目。阿佐《あさ》ヶ|谷《や》の病室。経堂《きょうどう》の病室。千葉県船橋。板橋の病室。天沼のアパート。天沼の下宿。甲州|御坂峠《みさかとうげ》。甲府市の下宿。甲府市郊外の家。東京都下|三鷹町《みたかまち》。甲府水門町。甲府新柳町。津軽。
 忘れているところもあるかも知れないが、これだけでも既に二十五回の転居である。いや、二十五回の破産である。私は、一年に二回ずつ破産してはまた出発し直して生きて来ていたわけである。そうしてこれから私の家庭生活は、どういう事になるのか、まるっきり見当もつかない。
 以上挙げた二十五箇所の中で、私には千葉船橋町の家が最も愛着が深かった。私はそこで、「ダス・ゲマイネ」というのや、また「虚構の春」などという作品を書いた。どうしてもその家から引き上げなければならなくなった日に、私は、たのむ! もう一晩この家に寝かせて下さい、玄関の夾竹桃《きょうちくとう》も僕が植えたのだ、庭の青桐《あおぎり》も僕が植えたのだ、と或る人にたのんで手放しで泣いてしまったのを忘れていない。一ばん永く住んでいたのは、三鷹町|下連雀《しもれんじゃく》の家であろう。大戦の前から住んでいたのだが、ことしの春に爆弾でこわされたので、甲府市水門町の妻の実家へ移転した。しかるに、移転して三月目にその家が焼夷弾《しょういだん》で丸焼けになったので、まちはずれの新柳町の或る家へ一時立ち退き、それからどうせ死ぬなら故郷で、という気持から子供二人を抱《かか》えて津軽の生家へ来たのであるが、来て二週目に、あの御放送があった、というのが
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