は私にこんな質問をした。君のお父さんと僕たちとは同じ人間か。私は困つて何とも答へなかつた。
私の父は非常に忙しい人で、うちにゐることがあまりなかつた。うちにゐても子供らと一緒には居らなかつた。私は此の父を恐れてゐた。父の萬年筆をほしがつてゐながらそれを言ひ出せないで、ひとり色々と思ひ惱んだ末、或る晩に床の中で眼をつぶつたまま寢言《ねごと》のふりして、まんねんひつ、まんねんひつ、と隣部屋で客と對談中の父へ低く呼びかけた事があつたけれど、勿論それは父の耳にも心にもはひらなかつたらしい。私と弟とが米俵のぎつしり積まれたひろい米藏に入つて面白く遊んでゐると、父が入口に立ちはだかつて、坊主、出ろ、出ろ、と叱つた。光を脊から受けてゐるので父の大きい姿がまつくろに見えた。私は、あの時の恐怖を惟ふと今でもいやな氣がする。
母に對しても私は親しめなかつた。乳母の乳で育つて叔母の懷で大きくなつた私は、小學校の二三年のときまで母を知らなかつたのである。下男がふたりかかつて私にそれを教へたのだが、ある夜、傍に寢てゐた母が私の蒲團の動くのを不審がつて、なにをしてゐるのか、と私に尋ねた。私はひどく當惑して、腰が痛いからあんまやつてゐるのだ、と返事した。母は、そんなら揉んだらいい、たたいて許りゐたつて、と眠さうに言つた。私は默つてしばらく腰を撫でさすつた。母への追憶はわびしいものが多い。私が藏から兄の洋服を出し、それを着て裏庭の花壇の間をぶらぶら歩きながら、私の即興的に作曲する哀調のこもつた歌を口ずさんでは涙ぐんでゐた。私はその身裝《みなり》で帳場の書生と遊びたく思ひ、女中を呼びにやつたが、書生は仲々來なかつた。私は裏庭の竹垣を靴先でからからと撫でたりしながら彼を待つてゐたのであるが、たうとうしびれを切らして、ズボンのポケツトに兩手をつつ込んだまま泣き出した。私の泣いてゐるのを見つけた母は、どうした譯か、その洋服をはぎ取つて了つて私の尻をぴしやぴしやとぶつたのである。私は身を切られるやうな恥辱を感じた。
私は早くから服裝に關心を持つてゐたのである。シヤツの袖口にはボタンが附いてゐないと承知できなかつた。白いフランネルのシヤツを好んだ。襦袢の襟も白くなければいけなかつた。えりもとからその白襟を一分《いちぶ》か二分《にぶ》のぞかせるやうに注意した。十五夜のときには、村の生徒たちはみんな晴衣を着て學校へ出て來るが、私も毎年きまつて茶色の太い縞のある本ネルの着物を着て行つて、學校の狹い廊下を女のやうになよなよと小走りにはしつて見たりするのであつた。私はそのやうなおしやれを、人に感附かれぬやうひそかにやつた。うちの人たちは私の容貌を兄弟中で一番わるいわるい、と言つてゐたし、そのやうな惡いをとこが、こんなおしやれをすると知られたら皆に笑はれるだらう、と考へたからである。私は、かへつて服裝に無關心であるやうに振舞ひ、しかもそれは或る程度まで成功したやうに思ふ。誰の眼にも私は鈍重で野暮臭く見えたにちがひないのだ。私が兄弟たちとお膳のまへに坐つてゐるときなど、祖母や母がよく私の顏のわるい事を眞面目に言つたものだが、私にはやはりくやしかつた。私は自分をいいをとこだと信じてゐたので、女中部屋なんかへ行つて、兄弟中で誰が一番いいをとこだらう、とそれとなく聞くことがあつた。女中たちは、長兄が一番で、その次が治ちやだ、と大抵さう言つた。私は顏を赤くして、それでも少し不滿だつた。長兄よりもいいをとこだと言つて欲しかつたのである。
私は容貌のことだけでなく、不器用だといふ點で祖母たちの氣にいらなかつた。箸の持ちかたが下手で食事の度毎に祖母から注意されたし、私のおじぎは尻があがつて見苦しいとも言はれた。私は祖母の前にきちんと坐らされ、何囘も何囘もおじぎをさせられたけれど、いくらやつて見ても祖母は上手だと言つて呉れないのである。
祖母も私にとつて苦手であつたのだ。村の芝居小屋の舞臺開きに東京の雀三郎一座といふのがかかつたとき、私はその興業中いちにちも缺かさず見物に行つた。その小屋は私の父が建てたのだから、私はいつでもただでいい席に坐れたのである。學校から歸るとすぐ、私は柔い着物と着換へ、端に小さい鉛筆をむすびつけた細い銀鎖を帶に吊りさげて芝居小屋へ走つた。生れて始めて歌舞伎といふものを知つたのであるし、私は興奮して、狂言を見てゐる間も幾度となく涙を流した。その興行が濟んでから、私は弟や親類の子らを集めて一座を作り自分で芝居をやつて見た。私は前からこんな催物が好きで、下男や女中たちを集めては、昔話を聞かせたり、幻燈や活動寫眞を映して見せたりしたものである。そのときには、「山中鹿之助」と「鳩の家」と「かつぽれ」と三つの狂言を並べた。山中鹿之助が谷河の岸の或る茶店で、早川鮎之助といふ家來を得る條を或る少年雜誌から拔き取つて、それを私が脚色した。拙者は山中鹿之助と申すものであるが、――といふ長い言葉を歌舞伎の七五調に直すのに苦心をした。「鳩の家」は私がなんべん繰り返して讀んでも必ず涙の出た長篇小説で、その中でも殊に哀れな所を二幕に仕上げたものであつた。「かつぽれ」は雀三郎一座がおしまひの幕の時、いつも樂屋總出でそれを踊つたものだから、私もそれを踊ることにしたのである。五六にち稽古して愈々その日、文庫藏《ぶんこぐら》のまへの廣い廊下を舞臺にして、小さい引幕などをこしらへた。晝のうちからそんな準備をしてゐたのだが、その引幕の針金に祖母が顎をひつかけて了つた。祖母は、此の針金でわたしを殺すつもりか、河原乞食の眞似糞はやめろ、と言つて私たちをののしつた。それでもその晩はやはり下男や女中たちを十人ほど集めてその芝居をやつてみせたが、祖母の言葉を考へると私の胸は重くふさがつた。私は山中鹿之助や「鳩の家」の男の子の役をつとめ、かつぽれも踊つたけれど少しも氣乘りがせずたまらなく淋しかつた。そののちも私はときどき「牛盜人」や「皿屋敷」や「俊徳丸」などの芝居をやつたが、祖母はその都度にがにがしげにしてゐた。
私は祖母を好いてはゐなかつたが、私の眠られない夜には祖母を有難く思ふことがあつた。私は小學三四年のころから不眠症にかかつて、夜の二時になつても三時になつても眠れないで、よく寢床のなかで泣いた。寢る前に砂糖をなめればいいとか、時計のかちかちを數へろとか、水で兩足を冷せとか、ねむのきの葉を枕のしたに敷いて寢るといいとか、さまざまの眠る工夫をうちの人たちから教へられたが、あまり效目がなかつたやうである。私は苦勞性であつて、いろんなことをほじくり返して氣にするものだから、尚のこと眠れなかつたのであらう。父の鼻眼鏡をこつそりいぢくつて、ぽきつとその硝子を割つてしまつたときには、幾夜もつづけて寢苦しい思ひをした。一軒置いて隣りの小間物屋では書物類もわづか賣つてゐて、ある日私は、そこで婦人雜誌の口繪などを見てゐたが、そのうちの一枚で黄色い人魚の水彩畫が欲しくてならず、盜まうと考へて靜かに雜誌から切り離してゐたら、そこの若主人に、治《をさ》こ、治《をさ》こ、と見とがめられ、その雜誌を音高く店の疊に投げつけて家まで飛んではしつて來たことがあつたけれど、さういふやりそこなひもまた私をひどく眠らせなかつた。私は又、寢床の中で火事の恐怖に理由なく苦しめられた。此の家が燒けたら、と思ふと眠るどころではなかつたのである。いつかの夜、私が寢しなに厠へ行つたら、その厠と廊下ひとつ隔てた眞暗い帳場の部屋で、書生がひとりして活動寫眞をうつしてゐた。白熊の、氷の崖から海へ飛び込む有樣が、部屋の襖へマツチ箱ほどの大きさでちらちら映つてゐたのである。私はそれを覗いて見て、書生のさういふ心持が堪らなく悲しく思はれた。床に就いてからも、その活動寫眞のことを考へると胸がどきどきしてならぬのだ。書生の身の上を思つたり、また、その映寫機のフヰルムから發火して大事になつたらどうしようとそのことが心配で心配で、その夜はあけがた近くになる迄まどろむ事が出來なかつたのである。祖母を有難く思ふのはこんな夜であつた。
まづ、晩の八時ごろ女中が私を寢かして呉れて、私の眠るまではその女中も私の傍に寢ながら附いてゐなければならなかつたのだが、私は女中を氣の毒に思ひ、床につくとすぐ眠つたふりをするのである。女中がこつそり私の床から脱け出るのを覺えつつ、私は睡眠できるやうひたすら念じるのである。十時頃まで床のなかで轉輾してから、私はめそめそ泣き出して起き上る。その時分になると、うちの人は皆寢てしまつてゐて、祖母だけが起きてゐるのだ。祖母は夜番の爺と、臺所の大きい圍爐裏を挾んで話をしてゐる。私はたんぜんを着たままその間にはひつて、むつつりしながら彼等の話を聞いてゐるのである。彼等はきまつて村の人々の噂話をしてゐた。或る秋の夜更に、私は彼等のぼそぼそと語り合ふ話に耳傾けてゐると、遠くから蟲おくり祭の太鼓の音がどんどんと響いて來たが、それを聞いて、ああ、まだ起きてゐる人がたくさんあるのだ、とずゐぶん氣強く思つたことだけは忘れずにゐる。
音に就いて思ひ出す。私の長兄は、そのころ東京の大學にゐたが、暑中休暇になつて歸郷する度毎に、音樂や文學などのあたらしい趣味を田舍へひろめた。長兄は劇を勉強してゐた。或る郷土の雜誌に發表した「奪ひ合ひ」といふ一幕物は、村の若い人たちの間で評判だつた。それを仕上げたとき、長兄は數多くの弟や妹たちにも讀んで聞かせた。皆、判らない判らない、と言つて聞いてゐたが、私には判つた。幕切の、くらい晩だなあ、といふ一言に含まれた詩をさへ理解できた。私はそれに「奪ひ合ひ」でなく「あざみ草」と言ふ題をつけるべきだと考へたので、あとで、兄の書き損じた原稿用紙の隅へ、その私の意見を小さく書いて置いた。兄は多分それに氣が附かなかつたのであらう、題名をかへることなくその儘發表して了つた。レコオドもかなり集めてゐた。私の父は、うちで何か饗應があると必ず、遠い大きなまちからはるばる藝者を呼んで、私も五つ六つの頃から、そんな藝者たちに抱かれたりした記憶があつて、「むかしむかしそのむかし」だの「あれは紀のくにみかんぶね」だのの唄や踊りを覺えてゐるのである。さういふことから、私は兄のレコオドの洋樂よりも邦樂の方に早くなじんだ。ある夜、私が寢てゐると、兄の部屋からいい音《ね》が漏れて來たので、枕から頭をもたげて耳をすました。あくる日、私は朝早く起き兄の部屋へ行つて手當り次第あれこれとレコオドを掛けて見た。そしてたうとう私は見つけた。前夜、私を眠らせぬほど興奮させたそのレコオドは、蘭蝶だつた。
私はけれども長兄より次兄に多く親しんだ。次兄は東京の商業學校を優等で出て、そのまま歸郷し、うちの銀行に勤めてゐたのである。次兄も亦うちの人たちに冷く取扱はれてゐた。私は、母や祖母が、いちばん惡いをとこは私で、そのつぎに惡いのは次兄だ、と言つてゐるのを聞いた事があるので、次兄の不人氣もその容貌がもとであらうと思つてゐた。なんにも要らない、をとこ振りばかりでもよく生れたかつた、なあ治、と半分は私をからかふやうに呟いた次兄の冗談口を私は記憶してゐる。しかし私は次兄の顏をよくないと本心から感じたことが一度もないのだ。あたまも兄弟のうちではいい方《はう》だと信じてゐる。次兄は毎日のやうに酒を呑んで祖母と喧嘩した。私はそのたんびひそかに祖母を憎んだ。
末の兄と私とはお互ひに反目してゐた。私は色々な祕密を此の兄に握られてゐたので、いつもけむつたかつた。それに、末の兄と私の弟とは、顏のつくりが似て皆から美しいとほめられてゐたし、私は此のふたりに上下から壓迫されるやうな氣がしてたまらなかつたのである。その兄が東京の中學に行つて、私はやうやくほつとした。弟は、末子で優しい顏をしてゐたから父にも母にも愛された。私は絶えず弟を嫉妬してゐて、ときどきなぐつては母に叱られ、母をうらんだ。私が十《とを》か十一のころのことと思ふ。私のシヤツや襦袢の縫目へ胡麻をふり撒いたやうにしらみがたかつた時など、弟がそれを
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