華という言葉もなお色あせて感ぜられる。北方の一孤島に於いて見事に玉砕し、護国の神となられた。
三田君が、はじめて私のところへやって来たのは、昭和十五年の晩秋ではなかったろうか。夜、戸石君と二人で、三鷹の陋屋《ろうおく》に訪ねて来たのが、最初であったような気がする。戸石君に聞き合せると更にはっきりするのであるが、戸石君も已《すで》に立派な兵隊さんになっていて、こないだも、
「三田さんの事は野営地で知り、何とも言えない気持でした。桔梗《ききょう》と女郎花《おみなえし》の一面に咲いている原で一しお淋《さび》しく思いました。あまり三田さんらしい死に方なので。自分も、いま暫くで、三田さんの親友として恥かしからぬ働きをしてお目にかける事が出来るつもりでありますが。」
というようなお便りを私に寄こしている状態なので、いますぐ問い合せるわけにもゆかない。
私のところへ、はじめてやって来た頃は、ふたり共、東京帝大の国文科の学生であった。三田君は岩手県花巻町の生れで、戸石君は仙台、そうして共に第二高等学校の出身者であった。四年も昔の事であるから、記憶は、はっきりしないのだが、晩秋の(ひょっとしたら初冬であったかも知れぬ)一夜、ふたり揃って三鷹の陋屋に訪ねて来て、戸石君は絣《かすり》の着物にセルの袴《はかま》、三田君は学生服で、そうして私たちは卓をかこんで、戸石君は床の間をうしろにして坐り、三田君は私の左側に坐ったように覚えている。
その夜の話題は何であったか。ロマンチシズム、新体制、そんな事を戸石君は無邪気に質問したのではなかったかしら。その夜は、おもに私と戸石君と二人で話し合ったような形になって、三田君は傍《そば》で、微笑《ほほえ》んで聞いていたが、時々かすかに首肯《うなず》き、その首肯き方が、私の話のたいへん大事な箇所だけを敏感にとらえているようだったので、私は戸石君の方を向いて話をしながら、左側の三田君によけい注意を払っていた。どちらがいいというわけではない。人間には、そのような二つの型があるようだ。二人づれで私のところにやって来ると、ひとりは、もっぱら華やかに愚問を連発して私にからかわれても恐悦の態《てい》で、そうして私の答弁は上の空で聞き流し、ただひたすら一座を気まずくしないように努力して、それからもうひとりは、少し暗いところに坐って黙って私の言葉に耳を澄ましている。
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