うお軽の唄をうたった。
突如、実にまったく突如、酔いが発した。ひや酒は、たしかに、水では無かった。ひどく酔って、たちまち、私の頭上から巨大の竜巻が舞い上り、私の足は宙に浮き、ふわりふわりと雲霧の中を掻きわけて進むというあんばいで、そのうちに転倒し、
わたしゃ
売られて行くわいな
と小声で呟《つぶや》き、起き上って、また転倒し、世界が自分を中心に目にもとまらぬ速さで回転し、
わたしゃ
売られて行くわいな
その蚊《か》の鳴くが如き、あわれにかぼそいわが歌声だけが、はるか雲煙のかなたから聞えて来るような気持で、
わたしゃ
売られて行くわいな
また転倒し、また起き上り、れいの「いい下着」も何も泥まみれ、下駄を見失い、足袋《たび》はだしのままで、電車に乗った。
その後、私は現在まで、おそらく何百回、何千回となく、ひや酒を飲んだが、しかし、あんなにひどいめに逢った事が無かった。
ひや酒に就いて、忘れられないなつかしい思い出が、もう一つある。
それを語るためには、ちょっと、私と丸山定夫君との交友に就いて説明して置く必要がある。
太平洋戦争のかなりすすんだ、あれは初秋の頃であったか、丸山定夫君から、次のような意味のおたよりをいただいた。
ぜひいちど訪問したいが、よろしいだろうか、そうしてその折、私ともう一人のやつを連れて行きたい、そのやつとも逢ってやっては下さるまいか。
私はそれまでいちども丸山君とは、逢った事も無いし、また文通した事も無かったのである。しかし、名優としての丸山君の名は聞いて知っていたし、また、その舞台姿も拝見した事がある。私は、いつでもおいで下さい、と返事を書いて、また拙宅に到る道筋の略図なども書き添えた。
数日後、丸山です、とれいの舞台で聞き覚えのある特徴のある声が、玄関に聞えた。私は立って玄関に迎えた。
丸山君おひとりであった。
「もうひとりのおかたは?」
丸山君は微笑して、
「いや、それが、こいつなんです。」
と言って風呂敷から、トミイウイスキイの角瓶を一本取り出して、玄関の式台の上に載せた。洒落《しゃれ》たひとだ、と私は感心した。その頃は、いや、いまでもそうだが、トミイウイスキイどころか、焼酎でさえめったに我々の力では入手出来なかったのである。
「それから、これはどうも、ケチくさい話なんですが、これを半分だけ、今夜二
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