酒ぎらい
太宰治
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)勿論《もちろん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)自由|濶達《かったつ》
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二日つづけて酒を呑んだのである。おとといの晩と、きのうと、二日つづけて酒を呑んで、けさは仕事しなければならぬので早く起きて、台所へ顔を洗いに行き、ふと見ると、一升瓶が四本からになっている。二日で四升呑んだわけである。勿論《もちろん》、私ひとりで四升呑みほしたわけでは無い。おとといの晩はめずらしいお客が三人、この三鷹《みたか》の陋屋《ろうおく》にやって来ることになっていたので、私は、その二三日まえからそわそわして落ちつかなかった。一人は、W君といって、初対面の人である。いやいや、初対面では無い。お互い、十歳のころに一度、顔を見合せて、話もせず、それっきり二十年間、わかれていたのである。一つきほどまえから、私のところへ、ちょいちょい日刊工業新聞という、私などとは、とても縁の遠い新聞が送られて来て、私は、ちょっとひらいてみるのであるが、一向に読むところが無い。なぜ私に送って下さるのか、その真意を解しかねた。下劣な私は、これを押売りではないかとさえ疑った。家内にも言いきかせ、とにかく之《これ》は怪しいから、そっくり帯封も破らずそのままにして保存して置くよう、あとで代金を請求して来たら、ひとまとめにして返却するよう、手筈《てはず》をきめて置いたのである。そのうちに、新聞の帯封に差出人の名前を記して送ってくるようになった。Wである。私の知らぬお名前であった。私は、幾度となく首ふって考えたが、わからなかった。そのうちに、「金木町のW」と帯封に書いてよこすようになった。金木町というのは、私の生れた町である。津軽平野のまんなかの、小さい町である。同じ町の生れゆえ、それで自社の新聞を送って下さったのだ、ということは、判明するに到ったが、やはり、どんなお人であるか、それを思い出すことができないのである。とにかく御好意のほどは、わかったのであるから、私は、すぐにお礼をハガキに書いて出した。「私は、十年も故郷へ帰らず、また、いまは肉親たちと音信さえ不通の有様なので、金木町のW様を、思い出すことが、できず、残念に存じて居ります。どなたさまで、ございましたでしょうか。おついでの折は、汚い家ですが、お立ち寄り下さい。」というようなことを書きしたためた筈である。相手の人の、おとしの程もわからず、或いは故郷の大先輩かも知れぬのだから、失礼に当らぬよう、言葉使いにも充分に注意した筈である。折返し長いお手紙を、いただいた。それで、わかった。裏の登記所のお坊ちゃんなのである。固苦しく言えば、青森県区裁判所金木町登記所々長の長男である。子供のころは、なんのことかわからず、ただ、トキショ、トキショと呼んでいた。私の家のすぐ裏で、W君は、私より一年、上級生だったので、直接、話をしたことは無かったけれど、たったいちど、その登記所の窓から、ひょいと顔を出した、その顔をちらりと見て、その顔だけが、二十年後のいまとなっても、色あせずに、はっきり残っていて、実に不思議な気がした。Wという名前を覚えていないし、それこそ、なんの恩怨《おんえん》もないのだし、私は高等学校時代の友人の顔でさえ忘れていることが、ままあるくらいの健忘症なのに、W君の、その窓から、ひょいと出した丸い顔だけは、まっくらい舞台に一箇所スポットライトを当てたようにあざやかに眼に見えているのである。W君も、内気なお人らしいから、私同様、外へ出て遊ぶことは、あまり無かったのではあるまいか。そのとき、たったいちどだけ、私はW君を見掛けて、それが二十年後のいまになっても、まるで、ちゃんと天然色写真にとって置いたみたいに、映像がぼやけずに胸に残って在るのである。私は、その顔をハガキに画いてみた。胸の映像のとおりに画くことができたので、うれしかった。たしかに、ソバカスが在ったのである。そのソバカスも、点々と散らして画いた。可愛い顔である。私は、そのハガキをW君に送った。もし、間違っていたら、ごめんなさい、と大いに非礼を謝して、それでも、やはりその画を、お目に掛けずには、居られなかった。そうして、「十一月二日の夜、六時ごろ、やはり青森県出身の旧友が二人、拙宅へ、来る筈ですから、どうか、その夜は、おいで下さい。お願いいたします。」と書き添えた。Y君と、A君と二人さそい合せて、その夜、私の汚い家に遊びに来てくれることになっていたのである。Y君とも、十年ぶりで逢うわけである。Y君は、立派な人である。私の中学校の先輩である。もとから、情の深い人であった。五、六年間、いなくなった。大試錬である。その間、独房にてずいぶん堂々の修行をなされたことと思う。いまは或る
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