それに私は、近眼のくせに眼鏡をかけていないので、よほど前の席に坐らないと、何も読めない。
私が映画館へ行く時は、よっぽど疲れている時である。心の弱っている時である。敗れてしまった時である。真っ暗いところに、こっそり坐って、誰にも顔を見られない。少し、ホッとするのである。そんな時だから、どんな映画でも、骨身にしみる。
日本の映画は、そんな敗者の心を目標にして作られているのではないかとさえ思われる。野望を捨てよ。小さい、つつましい家庭にこそ仕合せがありますよ。お金持ちには、お金持ちの暗い不幸があるのです。あきらめなさい。と教えている。世の敗者たるもの、この優しい慰めに接して、泣かじと欲するも得ざる也。いい事だか、悪い事だか、私にもわからない。
観衆たるの資格。第一に無邪気でなければいけない。荒唐無稽を信じなければいけない。大河内伝次郎は、必ず試合に勝たなければいけない。或る教養深い婦人は、「大谷日出夫という役者は、たのもしくていいわ。あの人が出て来ると、なんだか安心ですの。決して負けることがないのです。芸術映画は、退屈です。」と言って笑った。美しい意見である。利巧ぶったら、損をする。
映画と、小説とは、まるでちがうものだ。国技館の角力《すもう》を見物して、まじめくさり、「何事も、芸の極致は同じであります。」などという感慨をもらす馬鹿な作家。
何事も、生活感情は同じであります、というならば、少しは穏当である。
ことさらに、映画と小説を所謂《いわゆる》「極致」に於いて同視せずともよい。また、ことさらに独自性をわめき散らし、排除し合うのも、どうかしている。医者と坊主だって、路《みち》で逢えば互いに敬礼するではないか。
これからの映画は、必ずしも「敗者の糧」を目標にして作るような事は無いかも知れぬ。けれども観衆の大半は、ひょっとしたら、やっぱり侘《わ》びしい人たちばかりなのではあるまいか。日劇を、ぐるりと取り巻いている入場者の長蛇の列を見ると、私は、ひどく重い気持になるのである。「映画でも[#「でも」に傍点]見ようか。」この言葉には、やはり無気力な、敗者の溜息《ためいき》がひそんでいるように、私には思われてならない。
弱者への慰めのテエマが、まだ当分は、映画の底に、くすぶるのではあるまいか。
底本:「もの思う葦」新潮文庫、新潮社
1980(昭和55)
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング