めえの手紙のお説のとおりだよ」
「そう」
 私のその恋は、消えていた。
 夜が明けた。
 部屋が薄明るくなって、私は、傍で眠っているそのひとの寝顔をつくづく眺《なが》めた。ちかく死ぬひとのような顔をしていた。疲れはてているお顔だった。
 犠牲者の顔。貴い犠牲者。
 私のひと。私の虹《にじ》。マイ、チャイルド。にくいひと。ずるいひと。
 この世にまたと無いくらいに、とても、とても美しい顔のように思われ、恋があらたによみがえって来たようで胸がときめき、そのひとの髪を撫《な》でながら、私のほうからキスをした。
 かなしい、かなしい恋の成就《じょうじゅ》。
 上原さんは、眼をつぶりながら私をお抱きになって、
「ひがんでいたのさ。僕は百姓の子だから」
 もうこのひとから離れまい。
「私、いま幸福よ。四方の壁から嘆きの声が聞えて来ても、私のいまの幸福感は、飽和点よ。くしゃみが出るくらい幸福だわ」
 上原さんは、ふふ、とお笑いになって、
「でも、もう、おそいなあ。黄昏だ」
「朝ですわ」
 弟の直治は、その朝に自殺していた。

     七

 直治の遺書。

 姉さん。
 だめだ。さきに行くよ。
 僕《ぼく》は自分がなぜ生きていなければならないのか、それが全然わからないのです。
 生きていたい人だけは、生きるがよい。
 人間には生きる権利があると同様に、死ぬる権利もある筈です。
 僕のこんな考え方は、少しも新しいものでも何でも無く、こんな当り前の、それこそプリミチヴな事を、ひとはへんにこわがって、あからさまに口に出して言わないだけなんです。
 生きて行きたいひとは、どんな事をしても、必ず強く生き抜くべきであり、それは見事で、人間の栄冠とでもいうものも、きっとその辺にあるのでしょうが、しかし、死ぬことだって、罪では無いと思うんです。
 僕は、僕という草は、この世の空気と陽《ひ》の中に、生きにくいんです。生きて行くのに、どこか一つ欠けているんです。足りないんです。いままで、生きて来たのも、これでも、精一ぱいだったのです。
 僕は高等学校へはいって、僕の育って来た階級と全くちがう階級に育って来た強くたくましい草の友人と、はじめて附《つ》き合い、その勢いに押され、負けまいとして、麻薬を用い、半狂乱になって抵抗しました。それから兵隊になって、やはりそこでも、生きる最後の手段として阿片《アヘン》を用いました。姉さんには僕のこんな気持、わからねえだろうな。
 僕は下品になりたかった。強く、いや強暴になりたかった。そうして、それが、所謂《いわゆる》民衆の友になり得る唯一《ゆいいつ》の道だと思ったのです。お酒くらいでは、とても駄目だったんです。いつも[#「いつも」に傍点]、くらくら目まいをしていなければならなかったんです[#「くらくら目まいをしていなければならなかったんです」に傍点]。そのためには、麻薬以外になかったのです。僕は、家を忘れなければならない。父の血に反抗しなければならない。母の優しさを、拒否しなければならない。姉に冷たくしなければならない。そうでなければ、あの民衆の部屋にはいる入場券が得られないと思っていたんです。
 僕は下品になりました。下品な言葉づかいをするようになりました。けれども、それは半分は、いや、六十パーセントは、哀れな附け焼刃でした。へたな小細工でした。民衆にとって、僕はやはり、キザったらしく乙《おつ》にすました気づまりの男でした。彼等は僕と、しんから打ち解けて遊んでくれはしないのです。しかし、また、いまさら捨てたサロンに帰ることも出来ません。いまでは僕の下品は、たとい六十パーセントは人工の附け焼刃でも、しかし、あとの四十パーセントは、ほんものの下品になっているのです。僕はあの、所謂上流サロンの鼻持ちならないお上品さには、ゲロが出そうで、一刻も我慢できなくなっていますし、また、あのおえらがたとか、お歴々とか称せられている人たちも、僕のお行儀の悪さに呆《あき》れてすぐさま放逐するでしょう。捨てた世界に帰ることも出来ず、民衆からは悪意に満ちたクソていねいの傍聴席を与えられているだけなんです。
 いつの世でも、僕のような謂《い》わば生活力が弱くて、欠陥のある草は、思想もクソも無いただおのずから消滅するだけの運命のものなのかも知れませんが、しかし、僕にも、少しは言いぶんがあるのです。とても僕には生きにくい、事情を感じているんです。
 人間は、みな、同じものだ。
 これは、いったい、思想でしょうか。僕はこの不思議な言葉を発明したひとは、宗教家でも哲学者でも芸術家でも無いように思います。民衆の酒場からわいて出た言葉です。蛆《うじ》がわくように、いつのまにやら、誰が言い出したともなく、もくもく湧《わ》いて出て、全世界を覆《おお》い、世界を気まず
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