件降伏をしたとしの、十二月のはじめであった。お父上がお亡くなりになってから、私たちの家の経済は、お母さまの弟で、そうしていまではお母さまのたった一人の肉親でいらっしゃる和田の叔父さまが、全部お世話して下さっていたのだが、戦争が終わって世の中が変り、和田の叔父さまが、もう駄目《だめ》だ、家を売るより他《ほか》は無い、女中にも皆ひまを出して、親子二人で、どこか田舎の小綺麗な家を買い、気ままに暮したほうがいい、とお母さまにお言い渡しになった様子で、お母さまは、お金の事は子供よりも、もっと何もわからないお方だし、和田の叔父さまからそう言われて、それではどうかよろしく、とお願いしてしまったようである。
 十一月の末に叔父さまから速達が来て、駿豆《すんず》鉄道の沿線に河田|子爵《ししゃく》の別荘が売り物に出ている、家は高台で見晴しがよく、畑も百坪ばかりある、あのあたりは梅の名所で、冬暖かく夏涼しく、住めばきっと、お気に召すところと思う、先方と直接お逢いになってお話をする必要もあると思われるから、明日、とにかく銀座の私の事務所までおいでを乞《こ》う、という文面で、
「お母さま、おいでなさる?」
 と私がたずねると、
「だって、お願いしていたのだもの」
 と、とてもたまらなく淋しそうに笑っておっしゃった。
 翌《あく》る日、もとの運転手の松山さんにお伴《とも》をたのんで、お母さまは、お昼すこし過ぎにおでかけになり、夜の八時頃、松山さんに送られてお帰りになった。
「きめましたよ」
 かず子のお部屋へはいって来て、かず子の机に手をついてそのまま崩れるようにお坐りになり、そう一言《ひとこと》おっしゃった。
「きめたって、何を?」
「全部」
「だって」
 と私はおどろき、
「どんなお家だか、見もしないうちに、……」
 お母さまは机の上に片肘《かたひじ》を立て、額に軽くお手を当て、小さい溜息をおつきになり、
「和田の叔父さまが、いい所だとおっしゃるのだもの。私は、このまま、眼をつぶってそのお家へ移って行っても、いいような気がする」
 とおっしゃってお顔を挙げて、かすかにお笑いになった。そのお顔は、少しやつれて、美しかった。
「そうね」
 と私も、お母さまの和田の叔父さまに対する信頼心の美しさに負けて、合槌《あいづち》を打ち、
「それでは、かず子も眼をつぶるわ」
 二人で声を立てて笑ったけれども、笑ったあとが、すごく淋しくなった。
 それから毎日、お家へ人夫が来て、引越しの荷ごしらえがはじまった。和田の叔父さまも、やって来られて、売り払うものは売り払うようにそれぞれ手配をして下さった。私は女中のお君と二人で、衣類の整理をしたり、がらくたを庭先で燃やしたりしていそがしい思いをしていたが、お母さまは、少しも整理のお手伝いも、お指図《さしず》もなさらず、毎日お部屋で、なんとなく、ぐずぐずしていらっしゃるのである。
「どうなさったの? 伊豆へ行きたくなくなったの?」
 と思い切って、少しきつくお訊《たず》ねしても、
「いいえ」
 とぼんやりしたお顔でお答えになるだけであった。
 十日ばかりして、整理が出来上った。私は、夕方お君と二人で、紙くずや藁《わら》を庭先で燃やしていると、お母さまも、お部屋から出ていらして、縁側にお立ちになって黙って私たちの焚火《たきび》を見ていらした。灰色みたいな寒い西風が吹いて、煙が低く地を這《は》っていて、私は、ふとお母さまの顔を見上げ、お母さまのお顔色が、いままで見たこともなかったくらいに悪いのにびっくりして、
「お母さま! お顔色がお悪いわ」
 と叫ぶと、お母さまは薄くお笑いになり、
「なんでもないの」
 とおっしゃって、そっとまたお部屋におはいりになった。
 その夜、お蒲団《ふとん》はもう荷造りをすましてしまったので、お君は二階の洋間のソファに、お母さまと私は、お母さまのお部屋に、お隣りからお借りした一組のお蒲団をひいて、二人一緒にやすんだ。
 お母さまは、おや? と思ったくらいに老《ふ》けた弱々しいお声で、
「かず子がいるから、かず子がいてくれるから、私は伊豆へ行くのですよ。かず子がいてくれるから」
 と意外な事をおっしゃった。
 私は、どきんとして、
「かず子がいなかったら?」
 と思わずたずねた。
 お母さまは、急にお泣きになって、
「死んだほうがよいのです。お父さまの亡くなったこの家で、お母さまも、死んでしまいたいのよ」
 と、とぎれとぎれにおっしゃって、いよいよはげしくお泣きになった。
 お母さまは、今まで私に向って一度だってこんな弱音をおっしゃった事が無かったし、また、こんなに烈《はげ》しくお泣きになっているところを私に見せた事も無かった。お父上がお亡くなりになった時も、また私がお嫁に行く時も、そして赤ちゃんをおなか
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