を遣《つかわ》すは、羊《ひつじ》を豺狼《おおかみ》のなかに入《い》るるが如《ごと》し。この故《ゆえ》に蛇《へび》のごとく慧《さと》く、鴿《はと》のごとく素直《すなお》なれ。人々《ひとびと》に心《こころ》せよ、それは汝《なんじ》らを衆議所《しゅうぎしょ》に付《わた》し、会堂《かいどう》にて鞭《むちう》たん。また汝等《なんじら》わが故《ゆえ》によりて、司《つかさ》たち王《おう》たちの前《まえ》に曳《ひ》かれん。かれら汝《なんじ》らを付《わた》さば、如何《いかに》なにを言《い》わんと思《おも》い煩《わずら》うな、言《い》うべき事《こと》は、その時《とき》さずけられるべし。これ言《い》うものは汝等《なんじら》にあらず、其《そ》の中《うち》にありて言《い》いたまう汝《なんじ》らの父《ちち》の霊《れい》なり。又《また》なんじら我《わ》が名《な》のために凡《すべ》ての人《ひと》に憎《にく》まれん。されど終《おわり》まで耐《た》え忍《しの》ぶものは救《すく》わるべし。この町《まち》にて、責《せ》めらるる時《とき》は、かの町《まち》に逃《のが》れよ。誠《まこと》に汝《なんじ》らに告《つ》ぐ、なんじらイスラエルの町々《まちまち》を巡《めぐ》り尽《つく》さぬうちに人《ひと》の子《こ》は来《きた》るべし。
身《み》を殺《ころ》して霊魂《たましい》をころし得《え》ぬ者《もの》どもを懼《おそ》るな、身《み》と霊魂《たましい》とをゲヘナにて滅《ほろぼ》し得《う》る者《もの》をおそれよ。われ地《ち》に平和《へいわ》を投《とう》ぜんために来《きた》れりと思《おも》うな、平和《へいわ》にあらず、反《かえ》って剣《つるぎ》を投《とう》ぜん為《ため》に来《きた》れり。それ我《わ》が来《きた》れるは人《ひと》をその父《ちち》より、娘《むすめ》をその母《はは》より、嫁《よめ》をその姑※[#「女+章」、第4水準2−5−75]《しゅうとめ》より分《わか》たん為《ため》なり。人《ひと》の仇《あだ》は、その家《いえ》の者《もの》なるべし。我《われ》よりも父《ちち》または母《はは》を愛《あい》する者《もの》は、我《われ》に相応《ふさわ》しからず。我《われ》よりも息子《むすこ》または娘《むすめ》を愛《あい》する者《もの》は、我《われ》に相応《ふさわ》しからず。又《また》おのが十字架《じゅうじか》をとりて我《われ》に従《したが》わぬ者《もの》は、我《われ》に相応《ふさわ》しからず。生命《いのち》を得《う》る者《もの》は、これを失《うしな》い、我《わ》がために生命《いのち》を失《うしな》う者《もの》は、これを得《う》べし」
戦闘、開始。
もし、私が恋ゆえに、イエスのこの教えをそっくりそのまま必ず守ることを誓ったら、イエスさまはお叱《しか》りになるかしら。なぜ、「恋」がわるくて、「愛」がいいのか、私にはわからない。同じもののような気がしてならない。何だかわからぬ愛のために、恋のために、その悲しさのために、身《み》と霊魂《たましい》とをゲヘナにて滅《ほろぼ》し得《う》る者《もの》、ああ、私は自分こそ、それだと言い張りたいのだ。
叔父さまたちのお世話で、お母さまの密葬を伊豆で行い、本葬は東京ですまして、それからまた直治と私は、伊豆の山荘で、お互い顔を合せても口をきかぬような、理由のわからぬ気まずい生活をして、直治は出版業の資本金と称して、お母さまの宝石類を全部持ち出し、東京で飲み疲れると、伊豆の山荘へ大病人のような真蒼《まっさお》な顔をしてふらふら帰って来て、寝て、或る時、若いダンサアふうのひとを連れて来て、さすがに直治も少し間が悪そうにしているので、
「きょう、私、東京へ行ってもいい? お友だちのところへ、久し振りで遊びに行ってみたいの。二晩か、三晩、泊って来ますから、あなた留守番してね。お炊事は、あのかたに、たのむといいわ」
直治の弱味にすかさず附け込み、謂《い》わば蛇のごとく慧く、私はバッグにお化粧品やパンなど詰め込んで、きわめて自然に、あのひとと逢いに上京する事が出来た。
東京郊外、省線|荻窪《おぎくぼ》駅の北口に下車すると、そこから二十分くらいで、あのひとの大戦後の新しいお住居《すまい》に行き着けるらしいという事は、直治から前にそれとなく聞いていたのである。
こがらしの強く吹いている日だった。荻窪駅に降りた頃《ころ》には、もうあたりが薄暗く、私は往来のひとをつかまえては、あのひとのところ番地を告げて、その方角を教えてもらって、一時間ちかく暗い郊外の路地をうろついて、あまり心細くて、涙が出て、そのうちに砂利道《じゃりみち》の石につまずいて下駄の鼻緒がぷつんと切れて、どうしようかと立ちすくんで、ふと右手の二軒長屋のうちの一軒の家の表札が、夜目にも白くぼんやり浮んで、それに
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