う二、三軒飲める。馬鹿にしてやがる」
上原さんは顔をしかめておっしゃって、それから笑った。
「どこかへ、また、飲みにおいでになりますか?」
と、おたずねしたら、まじめに首を振って、
「いや、もうたくさん。タキシーを拾ってあげますから、お帰りなさい」
私たちは、地下室の暗い階段をのぼって行った。一歩さきにのぼって行く上原さんが、階段の中頃《なかごろ》で、くるりとこちら向きになり、素早く私にキスをした。私は唇《くちびる》を固く閉じたまま、それを受けた。
べつに何も、上原さんをすきでなかったのに、それでも、その時から私に、あの「ひめごと」が出来てしまったのだ。かたかたかたと、上原さんは走って階段を上って行って、私は不思議な透明な気分で、ゆっくり上って、外へ出たら、川風が頬《ほお》にとても気持よかった。
上原さんに、タキシーを拾っていただいて、私たちは黙ってわかれた。
車にゆられながら、私は世間が急に海のようにひろくなったような気持がした。
「私には、恋人があるの」
或《あ》る日、私は、夫からおこごとをいただいて淋しくなって、ふっとそう言った。
「知っています。細田でしょう? どうしても、思い切る事が出来ないのですか?」
私は黙っていた。
その問題が、何か気まずい事の起る度毎《たびごと》に、私たち夫婦の間に持ち出されるようになった。もうこれは、だめなんだ、と私は思った。ドレスの生地《きじ》を間違って裁断した時みたいに、もうその生地は縫い合せる事も出来ず、全部捨てて、また別の新しい生地の裁断にとりかからなければならぬ。
「まさか、その、おなかの子は」
と或る夜、夫に言われた時には、私はあまりおそろしくて、がたがた震えた。いま思うと、私も夫も、若かったのだ。私は、恋も知らなかった。愛、さえ、わからなかった。私は、細田さまのおかきになる絵に夢中になって、あんなお方の奥さまになったら、どんなに、まあ、美しい日常生活を営むことが出来るでしょう、あんなよい趣味のお方と結婚するのでなければ、結婚なんて無意味だわ、と私は誰にでも言いふらしていたので、そのために、みんなに誤解されて、それでも私は、恋も愛もわからず、平気で細田さまを好きだという事を公言し、取消そうともしなかったので、へんにもつれて、その頃、私のおなかで眠っていた小さい赤ちゃんまで、夫の疑惑の的になったりして
前へ
次へ
全97ページ中42ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング