政治、経済、社会、そんな学問なんかより、ひとりの処女の微笑が尊いというファウスト博士の勇敢なる実証。
学問とは、虚栄の別名である。人間が人間でなくなろうとする努力である。
ゲエテにだって誓って言える。僕は、どんなにでも巧《うま》く書けます。一篇《いっぺん》の構成あやまたず、適度の滑稽《こっけい》、読者の眼のうらを焼く悲哀、若《も》しくは、粛然、所謂襟《いわゆるえり》を正さしめ、完璧《かんぺき》のお小説、朗々音読すれば、これすなわち、スクリンの説明か、はずかしくって、書けるかっていうんだ。どだいそんな、傑作意識が、ケチくさいというんだ。小説を読んで襟を正すなんて、狂人の所作《しょさ》である。そんなら、いっそ、羽織袴《はおりはかま》でせにゃなるまい。よい作品ほど、取り澄ましていないように見えるのだがなあ。僕は友人の心からたのしそうな笑顔を見たいばかりに、一篇の小説、わざとしくじって、下手くそに書いて、尻餅《しりもち》ついて頭かきかき逃げて行く。ああ、その時の、友人のうれしそうな顔ったら!
文いたらず、人いたらぬ風情《ふぜい》、おもちゃのラッパを吹いてお聞かせ申し、ここに日本一の馬鹿がいます、あなたはまだいいほうですよ、健在なれ! と願う愛情は、これはいったい何でしょう。
友人、したり顔にて、あれがあいつの悪い癖、惜しいものだ、と御述懐。愛されている事を、ご存じ無い。
不良でない人間があるだろうか。
味気ない思い。
金が欲しい。
さもなくば、
眠りながらの自然死!
薬屋に千円ちかき借金あり。きょう、質屋の番頭をこっそり家へ連れて来て、僕の部屋へとおして、何かこの部屋に目ぼしい質草ありや、あるなら持って行け、火急に金が要る、と申せしに、番頭ろくに部屋の中を見もせず、およしなさい、あなたのお道具でもないのに、とぬかした。よろしい、それならば、僕がいままで、僕のお小遣い銭で買った品物だけ持って行け、と威勢よく言って、かき集めたガラクタ、質草の資格あるしろもの一つも無し。
まず、片手の石膏像《せっこうぞう》。これは、ヴィナスの右手。ダリヤの花にも似た片手、まっしろい片手、それがただ台上に載っているのだ。けれども、これをよく見ると、これはヴィナスが、その全裸を、男に見られて、あなやの驚き、含羞旋風《がんしゅうせんぷう》、裸身むざん、薄くれない、残りくまなき
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