か、ちょっと忘れたけれど、とにかく遠いところからお持帰りになった薔薇で、二、三箇月前に、叔父さまが、この山荘の庭に移し植えて下さった薔薇である。けさそれが、やっと一つ咲いたのを、私はちゃんと知っていたのだけれども、てれ隠しに、たったいま気づいたみたいに大げさに騒いで見せたのである。花は、濃い紫色で、りんとした傲《おご》りと強さがあった。
「知っていました」
 とお母さまはしずかにおっしゃって、
「あなたには、そんな事が、とても重大らしいのね」
「そうかも知れないわ。可哀《かわい》そう?」
「いいえ、あなたには、そういうところがあるって言っただけなの。お勝手のマッチ箱にルナアルの絵を貼《は》ったり、お人形のハンカチイフを作ってみたり、そういう事が好きなのね。それに、お庭の薔薇のことだって、あなたの言うことを聞いていると、生きている人の事を言っているみたい」
「子供が無いからよ」
 自分でも全く思いがけなかった言葉が、口から出た。言ってしまって、はっとして、まの悪い思いで膝の編物をいじっていたら、
 ――二十九だからなあ。
 そうおっしゃる男の人の声が、電話で聞くようなくすぐったいバスで、はっきり聞えたような気がして、私は恥ずかしさで、頬《ほお》が焼けるみたいに熱くなった。
 お母さまは、何もおっしゃらず、また、ご本をお読みになる。お母さまは、こないだからガーゼのマスクをおかけになっていらして、そのせいか、このごろめっきり無口になった。そのマスクは、直治の言いつけに従って、おかけになっているのである。直治は、十日ほど前に、南方の島から蒼黒《あおぐろ》い顔になって還《かえ》って来たのだ。
 何の前触れも無く、夏の夕暮、裏の木戸から庭へはいって来て、
「わあ、ひでえ。趣味のわるい家だ。来々軒《らいらいけん》。シュウマイあります、と貼りふだしろよ」
 それが私とはじめて顔を合せた時の、直治の挨拶《あいさつ》であった。
 その二、三日前からお母さまは、舌を病んで寝ていらした。舌の先が、外見はなんの変りも無いのに、うごかすと痛くてならぬとおっしゃって、お食事も、うすいおかゆだけで、お医者さまに見ていただいたら? と言っても、首を振って、
「笑われます」
 と苦笑いしながら、おっしゃる。ルゴールを塗ってあげたけれども、少しもききめが無いようで、私は妙にいらいらしていた。
 そこへ、
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