セージなども、ひょいと指先でつまんで召し上る事さえ時たまある。
「おむすびが、どうしておいしいのだか、知っていますか。あれはね、人間の指で握りしめて作るからですよ」
とおっしゃった事もある。
本当に、手でたべたら、おいしいだろうな、と私も思う事があるけれど、私のような高等御乞食が、下手に真似《まね》してそれをやったら、それこそほんものの乞食の図になってしまいそうな気もするので我慢している。
弟の直治でさえ、ママにはかなわねえ、と言っているが、つくづく私も、お母さまの真似は困難で、絶望みたいなものをさえ感じる事がある。いつか、西片町のおうちの奥庭で、秋のはじめの月のいい夜であったが、私はお母さまと二人でお池の端のあずまやで、お月見をして、狐《きつね》の嫁入りと鼠《ねずみ》の嫁入りとは、お嫁のお支度がどうちがうか、など笑いながら話合っているうちに、お母さまは、つとお立ちになって、あずまやの傍《そば》の萩《はぎ》のしげみの奥へおはいりになり、それから、萩の白い花のあいだから、もっとあざやかに白いお顔をお出しになって、少し笑って、
「かず子や、お母さまがいま何をなさっているか、あててごらん」
とおっしゃった。
「お花を折っていらっしゃる」
と申し上げたら、小さい声を挙げてお笑いになり、
「おしっこよ」
とおっしゃった。
ちっともしゃがんでいらっしゃらないのには驚いたが、けれども、私などにはとても真似られない、しんから可愛らしい感じがあった。
けさのスウプの事から、ずいぶん脱線しちゃったけれど、こないだ或《あ》る本で読んで、ルイ王朝の頃の貴婦人たちは、宮殿のお庭や、それから廊下の隅《すみ》などで、平気でおしっこをしていたという事を知り、その無心さが、本当に可愛らしく、私のお母さまなども、そのようなほんものの貴婦人の最後のひとりなのではなかろうかと考えた。
さて、けさは、スウプを一さじお吸いになって、あ、と小さい声をお挙げになったので、髪の毛? とおたずねすると、いいえ、とお答えになる。
「塩辛かったかしら」
けさのスウプは、こないだアメリカから配給になった罐詰《かんづめ》のグリンピイスを裏ごしして、私がポタージュみたいに作ったもので、もともとお料理には自信が無いので、お母さまに、いいえ、と言われても、なおも、はらはらしてそうたずねた。
「お上手に出来ました
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