出して、お熱を計ってみたら、三十九度あった。
 叔父さまもおどろいたご様子で、とにかく下の村まで、お医者を捜しに出かけられた。
「お母さま!」
 とお呼びしても、ただ、うとうとしていらっしゃる。
 私はお母さまの小さいお手を握りしめて、すすり泣いた。お母さまが、お可哀想でお可哀想で、いいえ、私たち二人が可哀想で可哀想で、いくら泣いても、とまらなかった。泣きながら、ほんとうにこのままお母さまと一緒に死にたいと思った。もう私たちは、何も要らない。私たちの人生は、西片町のお家を出た時に、もう終ったのだと思った。
 二時間ほどして叔父さまが、村の先生を連れて来られた。村の先生は、もうだいぶおとし寄りのようで、そうして仙台平《せんだいひら》の袴《はかま》を着け、白足袋をはいておられた。
 ご診察が終って、
「肺炎になるかも知れませんでございます。けれども、肺炎になりましても、御心配はございません」
 と、何だかたより無い事をおっしゃって、注射をして下さって帰られた。
 翌る日になっても、お母さまのお熱は、さがらなかった。和田の叔父さまは、私に二千円お手渡しになって、もし万一、入院などしなければならぬようになったら、東京へ電報を打つように、と言い残して、ひとまずその日に帰京なされた。
 私はお荷物の中から最小限の必要な炊事道具を取り出し、おかゆを作ってお母さまにすすめた。お母さまは、おやすみのまま、三さじおあがりになって、それから、首を振った。
 お昼すこし前に、下の村の先生がまた見えられた。こんどはお袴は着けていなかったが、白足袋は、やはりはいておられた。
「入院したほうが、……」
 と私が申し上げたら、
「いや、その必要は、ございませんでしょう。きょうは一つ、強いお注射をしてさし上げますから、お熱もさがる事でしょう」
 と、相変らずたより無いようなお返事で、そうして、所謂《いわゆる》その強い注射をしてお帰りになられた。
 けれども、その強い注射が奇効を奏したのか、その日のお昼すぎに、お母さまのお顔が真赤《まっか》になって、そうしてお汗がひどく出て、お寝巻を着かえる時、お母さまは笑って、
「名医かも知れないわ」
 とおっしゃった。
 熱は七度にさがっていた。私はうれしく、この村にたった一軒の宿屋に走って行き、そこのおかみさんに頼んで、鶏卵を十ばかりわけてもらい、さっそく半熟に
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