など読んで、帰って来そうも無かったから、立ち上って、おいとました、それだけの事だったのですが、僕は、その日のその時の、そのひとの瞳に、くるしい恋をしちゃったのです。
高貴、とでも言ったらいいのかしら。僕の周囲の貴族の中には、ママはとにかく、あんな無警戒な「正直」な眼の表情の出来る人は、ひとりもいなかった事だけは断言できます。
それから僕は、或る冬の夕方、そのひとのプロフィルに打たれた事があります。やはり、その洋画家のアパートで、洋画家の相手をさせられて、炬燵《こたつ》にはいって朝から酒を飲み、洋画家と共に、日本の所謂《いわゆる》文化人たちをクソミソに言い合って笑いころげ、やがて洋画家は倒れて大鼾《おおいびき》をかいて眠り、僕も横になってうとうとしていたら、ふわと毛布がかかり、僕は薄目をあけて見たら、東京の冬の夕空は水色に澄んで、奥さんはお嬢さんを抱いてアパートの窓縁に、何事も無さそうにして腰をかけ、奥さんの端正なプロフィルが、水色の遠い夕空をバックにして、あのルネッサンスの頃のプロフィルの画のようにあざやかに輪郭が区切られ浮んで、僕にそっと毛布をかけて下さった親切は、それは何の色気でも無く、慾《よく》でも無く、ああ、ヒュウマニティという言葉はこんな時にこそ使用されて蘇生《そせい》する言葉なのではなかろうか、ひとの当然の侘《わ》びしい思いやりとして、ほとんど無意識みたいになされたもののように、絵とそっくりの静かな気配で、遠くを眺《なが》めていらっしゃった。
僕は眼をつぶって、こいしく、こがれて狂うような気持ちになり、瞼《まぶた》の裏から涙があふれ出て、毛布を頭から引かぶってしまいました。
姉さん。
僕がその洋画家のところに遊びに行ったのは、それは、さいしょはその洋画家の作品の特異なタッチと、その底に秘められた熱狂的なパッションに、酔わされたせいでありましたが、しかし、附き合いの深くなるにつれて、そのひとの無教養、出鱈目《でたらめ》、きたならしさに興覚めて、そうして、それと反比例して、そのひとの奥さんの心情の美しさにひかれ、いいえ、正しい愛情のひと[#「正しい愛情のひと」に傍点]がこいしくて、したわしくて、奥さんの姿を一目見たくて、あの洋画家の家へ遊びに行くようになりました。
あの洋画家の作品に、多少でも、芸術の高貴なにおい、とでもいったようなものが現れてい
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