ロチン、シュルシュルシュ、とあちこちから、その出鱈目《でたらめ》みたいな歌が起って、さかんにコップを打ち合せて乾杯をしている。そんなふざけ切ったリズムでもってはずみをつけて、無理にお酒を喉《のど》に流し込んでいる様子であった。
「じゃ、失敬」
 と言って、よろめきながら帰るひとがあるかと思うと、また、新客がのっそりはいって来て、上原さんにちょっと会釈しただけで、一座に割り込む。
「上原さん、あそこのね、上原さん、あそこのね、あああ、というところですがね、あれは、どんな工合《ぐあ》いに言ったらいいんですか? あ、あ、あ、ですか? ああ、あ、ですか?」
 と乗り出してたずねているひとは、たしかに私もその舞台顔に見覚えのある新劇俳優の藤田である。
「ああ、あ、だ。ああ、あ、チドリの酒は、安くねえ、といったような塩梅《あんばい》だね」
 と上原さん。
「お金の事ばっかり」
 とお嬢さん。
「二羽の雀《すずめ》は一銭、とは、ありゃ高いんですか? 安いんですか?」
 と若い紳士。
「一厘も残りなく償わずば、という言葉もあるし、或者《あるもの》には五タラント、或者には二タラント、或者には一タラントなんて、ひどくややこしい譬話《たとえばなし》もあるし、キリストも勘定はなかなかこまかいんだ」
 と別の紳士。
「それに、あいつあ酒飲みだったよ。妙にバイブルには酒の譬話が多いと思っていたら、果せるかなだ、視《み》よ、酒を好む人、と非難されたとバイブルに録《しる》されてある。酒を飲む人でなくて、酒を好む人というんだから、相当な飲み手だったに違いねえのさ。まず、一升飲みかね」
 ともうひとりの紳士。
「よせ、よせ。ああ、あ、汝《なんじ》らは道徳におびえて、イエスをダシに使わんとす。チエちゃん、飲もう。ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ」
 と上原さん、一ばん若くて美しいお嬢さんと、カチンと強くコップを打ち合せて、ぐっと飲んで、お酒が口角からしたたり落ちて、顎が濡《ぬ》れて、それをやけくそみたいに乱暴に掌で拭《ぬぐ》って、それから大きいくしゃみを五つも六つも続けてなさった。
 私はそっと立って、お隣りの部屋へ行き、病身らしく蒼白《あおじろ》く痩《や》せたおかみさんに、お手洗いをたずね、また帰りにその部屋をとおると、さっきの一ばんきれいで若いチエちゃんとかいうお嬢さんが、私を待っていたような恰
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