っと襖《ふすま》があいて、お母さまが笑いながら顔をお出しになって、
「まだ起きていらっしゃる。眠くないの?」
 とおっしゃった。
 机の上の時計を見たら、十二時だった。
「ええ、ちっとも眠くないの。社会主義のご本を読んでいたら、興奮しちゃいましたわ」
「そう。お酒ないの? そんな時には、お酒を飲んでやすむと、よく眠れるんですけどね」
 とからかうような口調でおっしゃったが、その態度には、どこやらデカダンと紙一重のなまめかしさがあった。

 やがて十月になったが、からりとした秋晴れの空にはならず、梅雨時《つゆどき》のような、じめじめして蒸し暑い日が続いた。そうして、お母さまのお熱は、やはり毎日夕方になると、三十八度と九度のあいだを上下した。
 そうして或る朝、おそろしいものを私は見た。お母さまのお手が、むくんでいるのだ。朝ごはんが一ばんおいしいと言っていらしたお母さまも、このごろは、お床に坐って、ほんの少し、おかゆを軽く一|碗《わん》、おかずも匂《にお》いの強いものは駄目《だめ》で、その日は、松茸《まつたけ》のお清汁《すまし》をさし上げたのに、やっぱり、松茸の香さえおいやになっていらっしゃる様子で、お椀《わん》をお口元まで持って行って、それきりまたそっとお膳《ぜん》の上におかえしになって、その時、私は、お母さまの手を見て、びっくりした。右の手がふくらんで、まあるくなっていたのだ。
「お母さま! 手、なんともないの?」
 お顔さえ少し蒼《あお》く、むくんでいるように見えた。
「なんでもないの。これくらい、なんでもないの」
「いつから、腫《は》れたの?」
 お母さまは、まぶしそうなお顔をなさって、黙っていらした。私は、声を挙げて泣きたくなった。こんな手は、お母さまの手じゃない。よそのおばさんの手だ。私のお母さまのお手は、もっとほそくて小さいお手だ。私のよく知っている手。優しい手。可愛い手。あの手は、永遠に、消えてしまったのだろうか。左の手は、まだそんなに腫れていなかったけれども、とにかく傷《いた》ましく、見ている事が出来なくて、私は眼をそらし、床の間の花籠《はなかご》をにらんでいた。
 涙が出そうで、たまらなくなって、つと立って食堂へ行ったら、直治がひとりで、半熟卵をたべていた。たまに伊豆のこの家にいる事があっても、夜はきまってお咲さんのところへ行って焼酎《しょうちゅう》
前へ 次へ
全97ページ中65ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング