私の作品は、どう考えたって、映画化も劇化もされる余地が無い。だから優れた作品なのだ、というわけでは無い。「罪と罰」でも、「田園交響楽」でも、「阿部一族」でも、ちゃんと映画になっている様子だ。
「女の決闘」の映画などは、在り得ない。
どうも、自作を語るのは、いやだ。自己嫌悪で一ぱいだ。「わが子を語れ」と言われたら、志賀直哉ほどの達人でも、ちょっと躊躇《ちゅうちょ》するにちがいない。出来のいい子は、出来のいい子で可愛いし、出来の悪い子は、いっそう又かなしく可愛い。その間の機微を、あやまたず人に言い伝えるのは、至難である。それをまた、無理に語らせようとするのも酷ではないか。
私は、私の作品と共に生きている。私は、いつでも、言いたい事は、作品の中で言っている。他に言いたい事は無い。だから、その作品が拒否せられたら、それっきりだ。一言も無い。
私は、私の作品を、ほめてくれた人の前では極度に矮小《わいしょう》になる。その人を、だましているような気がするのだ。反対に、私の作品に、悪罵《あくば》を投げる人を、例外なく軽蔑する。何を言ってやがると思う。
こんど河出書房から、近作だけを集めた「女の決闘」という創作集が出版せられた。女の決闘は、この雑誌(文章)に半箇年間、連載せられ、いたずらに読者を退屈がらせた様子である。こんど、まとめて一本にしたのを機会に、感想をお書きなさい、その他の作品にも、ふれて書いてくれたら結構に思います、というのが編輯者、辻森《つじもり》さんの言いつけである。辻森さんには、これまで、わがままを通してもらった。断り切れないのである。
私には、今更、感想は何も無い。このごろは、次の製作に夢中である。友人、山岸外史君から手紙をもらった。(「走れメロス」その義、神《しん》に通ぜんとし、「駈込み訴え」その愛欲、地に帰せんとす。)
亀井勝一郎君からも手紙をもらった。(「走れメロス」再読三読いよいよ、よし。傑作である。)
友人は、ありがたいものである。一巻の創作集の中から、作者の意図を、あやまたず摘出してくれる。山岸君も、亀井君も、お座なりを言うような軽薄な人物では無い。この二人に、わかってもらったら、もうそれでよい。
自作を語るなんてことは、老大家になってからする事だ。
底本:「もの思う葦」新潮文庫、新潮社
1980(昭和
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング