圭介に似てゐた。それだけで、何もかも、判るだらう。洋服のときはゴルフパンツである。堂々の押し出しで、顏も美しかつた。たまに、學校へ人力車に乘つてやつて來て、祕書をしたがへ、校内を一巡する。和服に、絹の白手袋、銀のにぎりのステツキである。一巡して、職員たちに見送られ、人力車に乘つて悠々、御歸館。立派であつた。それこそ、兄貴の言葉ではないが、教育界にゐてそんなことをしたからこそ、失敗なので、あれで、當時の政黨にゐて動いてゐたなら、あるひは成功したのかも知れない。不幸な人であつた。
校長には、息子があつた。やはり弘前高等學校の理科に在籍してゐた。私は、その人とは、口をきいたこともなかつたが、それでも、校長の官舍と、私の下宿とは、つい近くだつたので、登校の途中、ちらと微笑をかはすことがあつて、この人は、その、校長追放の騷ぎの中で、氣の毒であつた。
校長は、全校の生徒を講堂に集めて、おわびをした。このたびは、まことにすまない、ゆるしてもらひたい、と堂々の演説口調で言つたので、生徒は、みんな笑つた。どろぼう! と叫んだ熱血兒もあつた。校長は、しばらく演壇で立往生した。私のちかくに、校長の息子がゐた。うつむいて、自分の靴の先のあたりを、じつと見つめてゐた。よく、できるひとで、クラスのトツプだつたらしいが、いまは、どうしてゐるだらう。
鈴木校長が檢事局につれて行かれて、そのつぎに來たのは、戸澤とかいふひとであつた。私は、ひとの名前を忘れ易く、この校長のお名前も、はつきり憶えてゐない。間違つてゐるかも知れない。菊池幽芳氏の實弟である。寫眞で見る、あの菊池幽芳氏と、たいへんよく似てゐた。小柄で、ふとつて居られた。英文學者の由であつた。軍事教練の査閲のときに、校長先生に敬禮! といふ號令がかかつて、私たちは捧《ささ》げ銃《つつ》をして、みると、校長は、秋の日ざしを眞正面に受けて、滿面これ含羞の有樣で、甚だ落ちつきがなかつた。ああ、やつぱり幽芳の弟だな、とそのときなつかしく思つた。この校長のときに、私たちは卒業したのである。その後のことは、さつぱり知らない。
底本:「太宰治全集11」筑摩書房
1999(平成11)年3月25日初版第1刷発行
初出:「帝國大學新聞」
1938(昭和13)年10月31日号
入力:向井樹里
校正:小林繁雄
2005年1月7日作成
青空文庫作
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング