はいないのだ。配給や登録の事だって、知らないのではない、知るひま[#「ひま」に傍点]が無いのだ。……父は、そう心の中で呟《つぶや》き、しかし、それを言い出す自信も無く、また、言い出して母から何か切りかえされたら、ぐうの音《ね》も出ないような気もして、
「誰か、ひとを雇いなさい」
と、ひとりごとみたいに、わずかに主張してみた次第なのだ。
母も、いったい、無口なほうである。しかし、言うことに、いつも、つめたい自信を持っていた。(この母に限らず、どこの女も、たいていそんなものであるが)
「でも、なかなか、来てくれるひともありませんから」
「捜せば、きっと見つかりますよ。来てくれるひとが無いんじゃ無い、いて[#「いて」に傍点]くれるひとが無いんじゃないかな?」
「私が、ひとを使うのが下手《へた》だとおっしゃるのですか?」
「そんな、……」
父はまた黙した。じつは、そう思っていたのだ。しかし、黙した。
ああ、誰かひとり、雇ってくれたらいい。母が末の子を背負って、用足しに外に出かけると、父はあとの二人の子の世話を見なければならぬ。そうして、来客が毎日、きまって十人くらいずつある。
「仕事部屋のほうへ、出かけたいんだけど」
「これからですか?」
「そう。どうしても、今夜のうちに書き上げなければならない仕事があるんだ」
それは、嘘《うそ》でなかった。しかし、家の中の憂鬱《ゆううつ》から、のがれたい気もあったのである。
「今夜は、私、妹のところへ行って来たいと思っているのですけど」
それも、私は知っていた。妹は重態なのだ。しかし、女房が見舞いに行けば、私は子供のお守りをしていなければならぬ。
「だから、ひとを雇って、……」
言いかけて、私は、よした。女房の身内のひとの事に少しでも、ふれると、ひどく二人の気持がややこしくなる。
生きるという事は、たいへんな事だ。あちこちから鎖がからまっていて、少しでも動くと、血が噴《ふ》き出す。
私は黙って立って、六畳間の机の引出しから稿料のはいっている封筒を取り出し、袂《たもと》につっ込んで、それから原稿用紙と辞典を黒い風呂敷に包み、物体でないみたいに、ふわりと外に出る。
もう、仕事どころではない。自殺の事ばかり考えている。そうして、酒を飲む場所へまっすぐに行く。
「いらっしゃい」
「飲もう。きょうはまた、ばかに綺麗《きれい》な縞
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