を得ない、とでも言おうか。いや、家庭に在る時ばかりでなく、私は人に接する時でも、心がどんなにつらくても、からだがどんなに苦しくても、ほとんど必死で、楽しい雰囲気《ふんいき》を創《つく》る事に努力する。そうして、客とわかれた後、私は疲労によろめき、お金の事、道徳の事、自殺の事を考える。いや、それは人に接する場合だけではない。小説を書く時も、それと同じである。私は、悲しい時に、かえって軽い楽しい物語の創造に努力する。自分では、もっとも、おいしい奉仕のつもりでいるのだが、人はそれに気づかず、太宰《だざい》という作家も、このごろは軽薄である、面白さだけで読者を釣る、すこぶる安易、と私をさげすむ。
人間が、人間に奉仕するというのは、悪い事であろうか。もったいぶって、なかなか笑わぬというのは、善《よ》い事であろうか。
つまり、私は、糞真面目《くそまじめ》で興覚めな、気まずい事[#「気まずい事」に傍点]に堪え切れないのだ。私は、私の家庭においても、絶えず冗談を言い、薄氷を踏む思いで冗談を言い、一部の読者、批評家の想像を裏切り、私の部屋の畳は新しく、机上は整頓《せいとん》せられ、夫婦はいたわり、尊敬し合い、夫は妻を打った事など無いのは無論、出て行け、出て行きます、などの乱暴な口争いした事さえ一度も無かったし、父も母も負けずに子供を可愛がり、子供たちも父母に陽気によくなつく。
しかし、これは外見。母が胸をあけると、涙の谷、父の寝汗も、いよいよひどく、夫婦は互いに相手の苦痛を知っているのだが、それに、さわらないように努めて、父が冗談を言えば、母も笑う。
しかし、その時、涙の谷、と母に言われて父は黙し、何か冗談を言って切りかえそうと思っても、とっさにうまい言葉が浮かばず、黙しつづけると、いよいよ気まずさが積り、さすがの「通人」の父も、とうとう、まじめな顔になってしまって、
「誰《だれ》か、人を雇いなさい。どうしたって、そうしなければ、いけない」
と、母の機嫌《きげん》を損じないように、おっかなびっくり、ひとりごとのように呟《つぶや》く。
子供が三人。父は家事には全然、無能である。蒲団《ふとん》さえ自分で上げない。そうして、ただもう馬鹿げた冗談ばかり言っている。配給だの、登録だの、そんな事は何も知らない。全然、宿屋住いでもしているような形。来客。饗応《きょうおう》。仕事部屋《し
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