ったのであるが、学生は、こんどは、げらげら笑い出して、それほど尊敬している人は、日本の作家の中には無い、ゲエテとか、ダヴィンチのお弟子になるんだったら、それくらいの苦心をしてもいいが、と嘯《うそぶ》き、卓の上の饅頭《まんじゅう》を一つ素早く頬張った。青春|無垢《むく》のころは、望みは、すべてこのように高くなければならぬのである。私は、その学生に向っては、何も言えなくなるのである。私は、軽蔑されている。けれども、その軽蔑は正しいのである。私は貧乏で、なまけもので、無学で、そうして甚《はなは》だ、いい加減の小説ばかり書いている。軽蔑されて、至当なのである。
 君は苦しいか、と私は私の無邪気な訪客に尋ねる。それあ、苦しいですよ、と饅頭ぐっと呑みこんでから答える。苦しいにちがいないのである。青春は人生の花だというが、また一面、焦燥、孤独の地獄である。どうしていいか、わからないのである。苦しいにちがいない。
 なるほど、と私は首肯し、その苦しさを持てあまして、僕のところへ、こうしてやって来るのかね、ひょっとしたら太宰も案外いいこと言うかも知れん、いや、やっぱり、あいつはだめかな? などとそんな気持で、ふらふらここへ来るのかね、もし、そうだったら、僕では、だめだ、君に何んにもいいこと教えることができない。だいいち、いま僕自身あぶないのだ。僕は、頭がわるいから、なんにもわからないのだ。ただ、僕はいままで、ばかな失敗ばかりやって来たから、僕のばかな真似をするなとなんべんでも繰り返して言いたいだけだ。学校をなまけては、いけない。落第しては、いけない。カンニングしてもいいから、学校だけは、ちゃんと卒業しなければいけない。できるだけ本を読め。カフェに行って、お金を乱費してはいけない。酒を呑みたいなら、友人、先輩と牛鍋《ぎゅうなべ》つつきながら悲憤|慷慨《こうがい》せよ。それも一週間に一度以上多くやっては、いけない。侘《わ》びしさに堪えよ。三日堪えて、侘びしかったら、そいつは病気だ。冷水摩擦をはじめよ。必ず腹巻きをしなければいけない。ひとから金を借りるな。飢死するとも借銭はするな。世の中は、人を飢死させないようにできているものだ。安心するがいい。恋は、必ず片恋のままで、かくして置け。女に恋を打ち明けるなど、男子の恥だ。思えば、思われる。それを信じて、のんきにして居れ。万事、あせってはならぬ
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