団次松蔦の鳥辺山《とりべやま》心中や皿屋敷などの声色を、はじめることさえ、たまにはありました。
そんなとき、二階の西洋間のソファにひとり寝ころんで、遠く兄たち二人の声色を聞き、けッと毒笑しているのが、三男でありました。この兄は美術学校にはいっていたのですが、からだが弱いので、あまり塑像のほうへは精を出さず、小説に夢中になって居りました。文学の友だちもたくさんあって、その友人たちと「十字街」という同人雑誌を発行し、ご自身は、その表紙の絵をかいたり、また、たまには「苦笑に終る」などという淡彩の小説を書いて発表したりしていました。夢川利一という筆名だったので、兄や姉たちは、ひどい名前だといって閉口し、笑っていました。RIICHI UMEKAWA とロオマ字でもって印刷した名刺を作らせ、少し気取って私にも一枚くださいましたが、読んでみると、リイチ・ウメカワとなっているので、私まで、ひやっとして、兄さんは、ユメカワでしょう? わざと、こう刷らせたの? とたずねたら、兄は、
「やあ、しまった。おれは、ウメカワじゃ無いんだ。」と言って、顔を真赤になさいました。もう、名刺を、友人や先輩、または馴染《なじみ》の喫茶店に差し上げてしまっていたのです。印刷所の手落ちでは無く、兄がちゃんと UMEKAWA と指定してやったものらしく、uという字を、英語読みにユウと読んでしまうことは、誰でも犯し易い間違いであります。家中、いよいよ大笑いになって、それからは私の家では、梅川先生だの、忠兵衛先生だのと呼ばれるようになりました。この兄は、からだが弱くて、十年まえ、二十八歳で死にました。顔が、不思議なくらい美しく、そのころ姉たちが読んでいた少女雑誌に、フキヤ・コウジとかいう人の画いた、眼の大きい、からだの細い少女の口絵が毎月出ていましたけれど、兄の顔は、あの少女の顔にそっくりで、私は時々ぼんやり、その兄の顔を眺めていて、ねたましさでは無く、へんにくすぐったいような楽しさを感じていました。
性質はまじめな、たいへん厳格で律儀なものをさえ、どこかに隠し持っていましたが、それでも趣味として、むかしフランスに流行したとかいう粋紳士風《プレッシュウ》、または鬼面毒笑風《ビュルレスク》を信奉している様子らしく、むやみやたらに人を軽蔑し、孤高を装って居りました。長兄は、もう結婚していて、当時、小さい女の子がひ
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