「里見八犬伝は、立派な古典ですね。日本的ロマンの、」鼻祖と言いかけて、熊本君のいまの憂鬱要因に気がつき、「元祖ですね。」と言い直した。
熊本君は、救われた様子であった。急にまた、すまし返って、
「たしかに、そんなところもありますね。」赤い唇を、きゅっと引き締めた。「僕は最近また、ぼちぼち読み直してみているんですけれども。」
「へへ、」佐伯は、机の傍にごろりと仰向きに寝ころび、へんな笑いかたをした。「君は、どうしてそんな、ぼちぼち読み直しているなんて嘘ばかり言うんだね? いつでも、必ずそう言うじゃないか。読みはじめた、と言ったっていいと思うがね。」
「軽蔑し給うな。」と再び熊本君は、その紳士的な上品な言葉を、まえよりいくぶん高い声で言って抗議したのであるが、顔は、ほとんど泣いていた。
「里見八犬伝を、はじめて読む人なんか無いよ。読み直しているのに違いない。」私は、仲裁してやった。この二少年の戦いの有様を眺めているのも楽しかったが、それよりも、今の私には、もっと重大な仕事があった。
「熊本君。」と語調を改めて呼びかけ、甚だ唐突なお願いではあるが、制服と帽子を、こんや一晩だけ貸して下さるまいか、と真面目に頼み込んだのである。
「制服と帽子? あの、僕の制服と帽子ですか?」熊本君は不機嫌そうに眉《まゆ》をひそめ、それから、寝ころんでいる佐伯のほうに向き直って、「佐伯君、僕は不愉快ですよ。僕を、あまり軽蔑しないで下さい。いったい、この人は、なんですか?」
「いやなら、よせ。」佐伯は寝ころんだままで呶鳴《どな》った。「無理に頼むわけじゃないんだ。君こそ失礼だぞ。そこにいる人は、いい人なんだ。君みたいなエゴイストじゃないんだ。」
「いや、いや。」私は佐伯に、いい人と言われて狼狽した。「僕だって、エゴイストです。佐伯君がいやだというのを僕が無理を言って、ここへ連れて来てもらったのですから。事情を申し上げてもいいんだけど、とにかく、僕から頼むのです。一晩だけ貸して下さい。あしたの朝早く、必ずお返し致します。」
「勝手にお使い下さい。僕は、存じません。」と泣き声で言って、くるりと、私の方に背を向け、机の上の洋書を、むやみにぱっぱっとめくった。
「よそうよ。僕は、どうなったって、いいんだ。」佐伯は上半身を起して、私に言った。
「それあ、いかん。」私は、断然首を横に振った。「君は、今になって、そんな事を言い出すのは、卑怯《ひきょう》だ。それじゃ、まるで、僕が君にからかわれて、ここまでやって来たようなものだ。」
「なんですか。」熊本君は、私たちが言い争いをはじめたら、奇妙に喜びを感じた様子で、くるりと、またこちらに向き直り、「佐伯君が、また何か、はじめたのですか? 深い事情があるようですね。」と、ひどく尊大な口調で言い、さも、分別ありげに腕組みをした。
「もういいんだ。僕は、熊本なんかに、ものを頼みたくないんだ。」佐伯は、急に立ちあがった。「僕は、帰るぞ。」
「待て、待て。」私も立ち上って、佐伯を引きとめた。「君には、帰るところは無い筈だ。熊本君だって、制服を貸さないとは言ってないんだ。君は、だだっ子と言われても仕様が無いよ。」
熊本君は、私が佐伯をやり込めると、どういうわけか、実に嬉しい様子であった。いよいよ得意顔して立ち上り、
「そうですとも。だだっ子と言われても仕様が無いですとも。僕は、お貸ししないとは言ってないんですからね。僕はエゴイストじゃありません。」壁に掛けてある制服と制帽を颯《さ》っとはずして、百万円でも貸与する時のように、もったいぶった手つきで私のほうに差し出した。「お気に召しますか、どうですか。」
「いや、結構です。」私は思わず、ぺこりとお辞儀をして、「ここで失礼して、着換えさせていただきます。」
着換えが終った。結構ではなかった。結構どころか、奇態であった。袖口からは腕が五寸も、はみ出している。ズボンは、やたらに太く、しかも短い。膝が、やっと隠れるくらいで、毛臑《けずね》が無残に露出している。ゴルフパンツのようである。私は流石《さすが》に苦笑した。
「よせよ。」佐伯は、早速《さっそく》嘲笑した。「なってないじゃないか。」
「そうですね。」熊本君も、腕をうしろに組んで、私の姿をつくづく見上げ、見下し、「どういう御身分のおかたか存じませんけれど、これでは、私の洋服の評判まで悪くなります。」と言って念入りに溜息まで吐いてみせた。
「かまわない。大丈夫だ。」私は頑張った。「こんな学生を、僕は、前に本郷で見た事があるよ。秀才は、たいてい、こんな恰好《かっこう》をしているようだ。」
「帽子が、てんで頭にはいらんじゃないか。」佐伯は、またしても私にけちを附けた。「いっそ、まっぱだかで歩いたほうが、いいくらいだ。」
「僕の帽子は、決して小さ
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