。」私は、この少年と共に今まで時を費したのを後悔していた。
「君は、お坊ちゃん育ちだな。人から金をもらう、つらさを知らないんだ。」少年は、負けていなかった。「概念的だっていい。そんな、平凡な苦しさを君は知らないんだ。」
「僕だって、それや知っているつもりだがね。わかり切った事だ。胸に畳《たた》んで、言わないだけだ。」
「それじゃ君は、映画の説明が出来るかね?」少年と私とは、先刻から、視線を平行に池の面に放って、並んで坐ったままなのである。
「映画の説明?」
「そうさ。娘が、この春休みに北海道へ旅行に行って、そうして、十六ミリというのかね、北海道の風景を、どっさり撮影して来たというわけさ。おそろしく長いフィルムだ。僕も、ちょっと見せてもらったがね。しどろもどろの実写だよ。こんどそれを葉山さんのサロンで公開するんだそうだ。所謂《いわゆる》、お友達、を集めてね。ところが、その愚劣な映画の弁士を勤めて、お客の御機嫌を取り結ぶのが、僕の役目なんだそうだ。」
「それあいい。」私は、大声で笑ってしまった。「いいじゃないか。北海道の春は、いまだ浅くして、――」
「本気で言ってるのかね?」少年の声は、怒りに震えているようであった。
 私は、あわてて頬を固くし、真面目な口調に返り、
「僕なら、平気でやってのけるね。自己優越を感じている者だけが、真の道化をやれるんだ。そんな事で憤慨して、制服をたたき売るなんて、意味ないよ。ヒステリズムだ。どうにも仕様がないものだから、川へ飛びこんで泳ぎまわったりして、センチメンタルみたいじゃないか。」
「傍観者は、なんとでも言えるさ。僕には、出来ない。君は、嘘つきだ。」
 私は、むっとした。
「じゃ、これから君は、どうするつもりなんだい。わかり切った事じゃないか。いつまでも、川で泳いでいるつもりなのか。帰るより他は無いんだ。元の生活に帰り給え。僕は忠告する。君は、自分の幼い正義感に甘えているんだ。映画説明を、やるんだね。なんだい、たった一晩の屈辱じゃないか。堂々と、やるがいい。僕が代ってやってもいいくらいだ。」最後の一言がいけなかった。とんでも無い事になったのである。私は少年から、嘘つき、と言われ、奇妙に痛くて逆上し、あらぬ事まで口走り、のっぴきならなくなったのである。
「君に、出来るものか。」少年は、力弱く笑った。
「出来るとも。出来るよ。」とむきになって言い切った。
 それから一時間のち、私は少年と共に、渋谷の神宮通りを歩いていた。ばかばかしい行為である。私は、ことし三十二歳である。自重しなければならぬ。けれども私は、この少年に、口さきばかり、と思われたくないばかりに、こうして共に歩いている。所詮は私も、自分の幼い潔癖に甘えていたのかも知れない。私は自分の不安な此《こ》の行動に、少年救済という美名を附して、わずかに自分で救われていた。溺れかけている少年を目前に見た時は、よし自分が泳げなくとも、救助に飛び込まなければならぬ。それが市民としての義務だ、と無理矢理自分に思い込ませるように努力していた。全く、単に話の行きがかりから、私は少年の代りに一夜だけ、高等学校の制服制帽で、葉山家に出かけて行かなければならなくなったのである。佐伯五一郎の友人として、きょうは佐伯が病気ゆえ、代りに僕が参りましたと挨拶して、「早春の北海道」というその愚にもつかぬ映画を面白おかしく説明しなければならなくなった。
 私には、もとより制服も制帽も無い。佐伯にも無い。きのう迄は、あったんだけれど、靴もろとも売ってしまったというのである。借りに行かなければならぬ。佐伯は私の実行力を疑い、この企画に躊躇《ちゅうちょ》していたようであったが、私は、少年の逡巡《しゅんじゅん》の様を見て、かえって猛《たけ》りたち、佐伯の手を引かんばかりにして井の頭の茶店を立ち出で、途中三鷹の私の家に寄って素早く鬚《ひげ》を剃《そ》り大いに若がえって、こんどは可成りの額の小遣銭《こづかいせん》を懐中して、さて、君の友人はどこにいるか、制服制帽を貸してくれるような親しい友人はいないか、と少年に問い、渋谷に、ひとりいるという答を得て、ただちに吉祥寺駅から、帝都電鉄に乗り、渋谷に着いた。私は少し狂っていたようである。
 神宮通りをすたこら歩いた。葉山家、映画の会は、今夜だという。急がなければならぬ。
「ここです。」少年は立ちどまった。
 古い板塀の上から、こぶしの白い花が覗いていた。素人《しろうと》下宿らしい。
「くまもとう!」と少年は、二階の障子《しょうじ》に向って叫んだ。
「くまもと、くん。」と私も、いつしか学生になったつもりで、心易く大声で呼びたてた。

       第四回

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ワグネル君、
正直に叫んで、
成功し給え。
しんに言いたい事があるな
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